38話 悲傷
「───ン。起きて、シモン!」
「ん……」
呼ばれて目を開いたシモンは、ゴツゴツとした灰色の地面に俯せになっていた。
「大丈夫? 早く起きて! 逃げるのよ!」
シモンは、母親に手を引かれて走り出した。
膝や腕は擦り傷だらけだ。他の人も、必死の形相で逃げている。
辺りは瓦礫と化し、砂埃と煙が漂い、焼け焦げたような匂いと火薬の匂いが混ざってする。太陽が隠れ鈍色の空になっているせいか、汗が体温を奪っているせいかわからないが、いつもの暑さは感じず少し涼しかった。
砲撃の音が、数百メール離れたところから響いてくる。銃撃音は、逃げるシモンたちの後ろからも聞こえてきた。
振り向くと、ライフル銃を持った味方の戦闘員と反勢力の戦闘員が、銃撃戦をしている。味方は逃げる市民の壁になっていたが、敵が撃った弾が一般市民を撃ち抜いた。モノクロの世界に、温かみが悲愴とともに散った。
味方は応戦するが数が足りず、一般市民の犠牲が一人、また一人と増えていく。
「あっ。おばさん!」
シモンは後方に、いつも声を掛けてくれる隣人を見つけた。息子と一緒に逃げている彼女に、危険がすぐそこまで迫っていることを伝えたくて、「早く!」と叫ぼうとした。
しかし。銃弾が足に当たり、二発目が背中に命中して倒れた。
「……っ!」
一緒にいた息子も頭部に食らい、寄り添うように倒れた。二人とも、動くことはなかった。
シモンは母親とともに、どうにか避難所になっている別の学校に到着した。他の避難所からも逃げて来た人で溢れ、ここでも怪我人が応急処置を受けていた。
じわりと暑い中でも我慢して、人々は身を寄せ合う。しかし、一時も気を緩めることは許されず、もう二週間以上安眠できていない。日常は壊され、心身の健康を脅かされ、地獄で生きているような日々に涙も枯れた。
シモンも母親に寄り添われながら、教室の片隅に身を縮めた。その幼い目に焼き付いた映像が、どうしても消えなかった。
シモンは、怯えた目で母親に尋ねる。
「お母さん。何でこんなことになってるの?」
「男たちが、反勢力と戦争を始めたからよ」
「お父さんも、戦争に行ったんだよね?」
「そうよ。でも、悪いことじゃないの。私たちを守るためなのよ」
「戦争は悪いことじゃないの? 守ることが理由だったら、正しいことなの?」
「ええ。守ることは正義だもの。悪いのは、先に攻撃して来た敵の方なのよ」
「でも。おばさん死んじゃったよ? 他にも、たくさんの人が死んだよ? それでも、守る戦争は正しいの?」
「犠牲が出るのは、諦めなきゃいけないの。それが戦争なんだから」
母親はシモンの肩を抱いた。
しばらくして、誰かがラジオが付けた。避難所となっている幼稚園のすぐ近くで戦闘していると、アナウンスされる。
安全だと思っていた地域に、今朝になって反勢力が攻めて来たのだ。そこには、一時避難をしている園児とその保護者だけで、偉大なる指導者も危険な思想を持った者もいないのに。
「子供たちは!?」
その幼稚園の教員をしているシモンの母親は、食い入るように聴き入る。別の避難所へ逃げるために、移動を始めているようだった。しかし、その最中にも拘わらず、銃声や爆音が絶え間なく聴こえる。
その時。ひときわ大きな爆音がラジオから放たれた。それは、ノイズを交えて合計三回聴こえた。聴衆から悲鳴が上がり、耳を塞ぐ人も少なくなかった。
リポーターは伝える。
「反勢力が放った砲弾が幼稚園の建物に命中した! なんてことだ。まだ多くの園児が残されていたぞ。やつらは悪魔か!」
仕事を忘れ本心が出てしまうほど、惨い現場になってしまったのだろう。リポーターは重ねて言う。
「人の血が流れていない者のせいで、罪のない多くの命が奪われた。これはもう虐殺だ」
聴いていた人々は顔を覆い、悲しみに嘆き、啜り泣き、誰かが「神よ」と呟いた。新たな恐怖と絶望を生むには、十分だった。
「あああああ……っ!」
シモンの母親は、金切り声を上げた。愛しい幼子たちを失った絶望感に襲われ、床に伏せた。
「お母さんっ」
シモンは、未熟な手で慟哭する母親に寄り添った。
(犠牲が出るのは、諦めなきゃならない。これが、戦争なんだ……)
シモンも、恐怖でどうにかなりそうだった。
ここは、命が安く扱われる世界だ。逃げても敵は追って来て、無実の人々を追い込むように周りから撃ち殺していく。
しかし、これが戦争で、人が死ぬのは諦めなければならないこと。正義のためでも仕方がないことだと、シモンは幼心に言い聞かせた。
そんな悲愴の中、外で銃撃が聞こえ始めた。その直後、ライフル銃を持った味方の男性が飛び込んで来て叫ぶ。
「敵がここまで攻めて来た! 早く避難しろ!」
聞いた人々は一斉に立ち上がり、性急に逃げ始める。シモンも、母親とともに立ち上がろうとした。
「お母さん。ボクたちも! ……お母さん?」
ところが母親は、園児を亡くしたショックで放心状態となっていた。




