29話 昨日の傷痕
夕方。いつもは全員揃って囲む食卓に、シモンとヤコブの姿はなかった。
少し寂しい夕食が終わる頃、ヤコブだけがリビングルームに顔を出した。
「あ。ヤコブ」
「悪いな。一緒に飯食えなくて」
「それはいいけど。シモンは?」
「顔色も良くなってきたから、心配ない。でも、あんまり食欲ないみたいでさ。軽く食えるものない?」
「カルトッフェル・ズッペがあるよ」
ヤコブは、ユダからじゃがいものスープを二皿と、一人分のブロートをもらって部屋に戻った。そして、シモンと二人で窓際のテーブルに座って食べた。
「おいしい」
「今日は、ユダが食事当番だったからな」
「ユダが作るご飯て、ハズレがないよね」
「顔良くて性格良くて家事もできるって。マジであいつ、パーフェクト紳士かよ」
「本当だよね」
シモンの気分もだいぶよくなったようで、ヤコブとの会話を楽しみながら一皿のスープを食べ切った。
ヤコブは、食後のコーヒーを淹れた。シモンの方にはミルクを入れ、今日は砂糖の代わりにハチミツを溶かしてみた。
「体調、大丈夫そうか?」
「うん……。でも、想像してたよりヤバかった。あれを二度も経験したペトロ、すごいよ」
「てことはやっぱり、トラウマを見せられたのか」
「うん。結構リアルだったよ」
シモンは、ミルクとハチミツ入りのコーヒーを飲んだ。いつもと違う甘さが、少しほっとする。
「俺がシモンの腕を掴んだ時に、一瞬、途切れ途切れに戦場の映像が見えた。あれって……シモンが昔巻き込まれた戦争、だよな」
「ユダと同じ体験をしたなら、そうだね」
ヤコブが慎重に尋ねると、カップに視線を落とすシモンは静かに答えた。
断片的にトラウマとなった記憶を見てしまったヤコブは、シモンの体験を聞きたいようで聞けずためらう。棺から出たばかりで、さらに傷口を開くようなことはしたくなかった。
それを感じてか、シモンからきっかけが作られた。
「ヤコブには、どこまで話してたっけ」
「両親はそれぞれ違う国の出身で、シモンが生まれたのは中東の国だよな。その国で六歳のころに戦争に巻き込まれて、停戦後に移住して来たんだよな」
「うん、そう。停戦までは半年くらいで、始まってからはずっと地獄の日々だった。というか。地獄だった」
シモンは、表情に暗い影を落とした。
「思い出すのが辛いなら、無理に話さなくていいぞ」
語られる境遇に耳を傾けようと思ったが、表情に落とされた闇を見てヤコブはためらった。けれど、シモンは首を横に振る。
「きっかけがあれば簡単に思い出せるくらい、記憶に深く刻まれてるから。逃げられないんだよ」
逃げられない。銃弾や砲弾が飛び交う街の中を逃げ回っても、どこにも行けなかったように。
シモンは一度、深く呼吸をした。息が僅かに震えているのが、ヤコブにも聞こえた。
「毎日毎日、朝も夜も関係なく爆音が轟いて。安眠なんてできなくて。逃げる場所逃げる場所が戦場になって、着の身着のまま気を休められる場所を求めて。だけど、そんな場所はどこにもなくて。でも、逃げないと死んじゃうから、必死に逃げた」
最初は、何が起きているのかすらわからなかった。最小限の荷物だけを持ち、母親に手を引っ張られて家を飛び出し、父親がどこかに行って三日ほど経ってから日常が戻らなくなったんだと気付いた。
「戦争に巻き込まれてるなんて、あの時はわからなかった。でも、遠くから飛んで来るミサイルや砲弾が街を壊して、たくさんの人が怪我して、死んだりして、わからないなりに“これが戦争なんだ”って知った。地獄って、きっとこういう場所なんだって……」
シモンは目に涙を浮かべる。ヤコブは、その手を握った。
「武装する大人たちが全員、悪魔に見えた。守ってくれてる人も本当は信じなきゃダメなのに、純粋にそう思えなくて。お父さんも戦闘に参加して、守ってくれてたのに……」
「親父さんは?」
「戦死した。お母さんは精神的に重い病を罹って、入院してた。今は、叔母さんのとこにいる」
シモンは頼るように、ヤコブの手を強く握り返した。




