7話 失くした過去
「今日は疲れたでしょ」
「まぁ。怒濤の展開過ぎて……」
(今日引っ越して来たばかりのはずなのに、一気に一週間ぶんの時間を過ごした気分だ)
「そうだよね。私もちょっと性急だったかも。ごめんね」
謝られたペトロは、同行したのは自分の意志なので自己責任だと、首を横に振った。
「環境には慣れそう?」
「こういう初対面の人との共同生活は初めてだけど、悪いやつらじゃなさそうだから安心した」
「仲間を思い遣れるいい子たちだから。同世代だし、すぐに仲良くなれるよ」
「戦いにも、付いていけるようになるのかな」
使徒の役目を目の当たりにし圧倒されたペトロは、未知の世界に足を踏み入れる怖さに、少し自信が負けそうだった。
まるで、使徒の活動を始めたばかりの自分を見ているようで、ユダはその表情が懐かしくもあり、守ってあげたくもなってしまう。
「不安になっちゃった?」
「ちょっとだけ。戦ってるのを間近で見てて、なんか、ひたすら迫力に圧倒された」
「AIが作った映像とは違って、リアルだからね」
「でも。やるからには頑張る。弱音を吐きたくないし、逃げ出したりしない」
「頼もしいね。とても心強いよ」
いったん二人の口が閉じられると、耳栓を外したようにヨハネたちの賑やかなしゃべり声が際立った。
ペトロは何かを気に掛けるような面持ちになり、少しばかりの憂慮を声に乗せて訊いた。
「……あのさ。戦う時、今日みたいに憑依された人のケアもするんだろ。あれって、毎回やってるの?」
「うん。毎回だよ」
「トラウマを和らげて助けるのは、理解できるんだけどさ。オレたちもトラウマを抱えてるのに、人のトラウマを覗くのは辛くないのか?」
「そうだね……」
ユダは、泡の消えた琥珀色のピルスナービールを、一口飲んだ。口内に広がった旨味と苦味が、余韻を残して喉を通る。
「辛くないわけじゃないよ。時には、自分のトラウマと似ている人を救うことになるから、自身のトラウマを想起しやすい。だから、戦闘後に不調を訴えることもある。でもヨハネくんたちは、そのリスクをリスクとも思ってないんだ。私たちが戦っているのは、自分自身のためでもあるからね」
「自身の“弱み”が“強み”になる可能性もある、って言ってたこと?」
「いつかはちゃんと向き合わなければならないことが、きみたちの深層にもある。それと目を逸らさずに戦うことで、私たちは強くなれる。そしてそのぶん、多くの人を救えるようになる」
トラウマを抱える人を救い、自身のトラウマも次第に克服して強くなり、そしてその力で、さらに人を救う。そのループが悪魔の根絶に繋がり、人々の安寧が守られることになる。
「ペトロくんもそのうち、憑依された人の深層に潜らなければならない。最初は怖いかもしれないけど、大丈夫?」
ペトロを気遣って、ユダは尋ねた。
ペトロは、人の深層に入るということを想像してみるが、それがどんな感覚で、潜った先がどんな世界なのかは全く想像できない。
「わからない。だけど。自分のトラウマとか知らない人のトラウマとか関係なく、覚悟を決めておいた方がいいのはわかる」
「いい心構えだね。でも、確かに覚悟も必要だけど、忘れないでほしいのが、私たちはただ人々を救うだけじゃないということ。その時が来たら、自分よりも、救う人の気持ちに寄り添ってあげてほしい」
最も大切なことは、深層潜入をしたその先にあると、ユダは柔和な面持ちと声音で言った。その雰囲気からは、心の底には余計なものは何も落ちていないような、波風のない人生を送って来たようにペトロには感じた。
「みんなは、それぞれどんなトラウマを抱えてるのか知ってるのか?」
「よくは知らないかな。仲間と言っても、そこは、踏み入れることが制限されるエリアだからね。だから、どこの出身とか知ってる過去もあるけど、日常会話の中でふと触れることがあれば、軽く聞くらいにしてるよ」
「そうなんだ……」
ペトロは、ヨハネとヤコブとシモンを見遣った。三人とも冗談を言い合いながら笑っていて、抱えているものの陰すら窺えず、トラウマがあるようには全然見えない。
「強いんだな。みんな」
「頑張って、強くなったんだよ」
ユダはこれまでの仲間たちの健闘を想起し、誇らしさで称えた。
「あと……」ペトロは、もう一つ訊いてみたいことがある。だが、訊いていいのだろうかとためらう。
「訊きたいことがあるなら、なんでも訊いていいよ」
察したユダは、遠慮はいらないと言った。ペトロは迷うが、いつかは訊くことだろうと思い、思い切って尋ねる。
「あのさ……。さっき、記憶喪失って言ってたと思うんだけど……」
一度は一歩下がったが、やっぱりどうしても気になってしまった。誰かのことに興味を抱くなんてしばらくなかったのにと、自分でも不思議だが、仲間になったのなら知っておかなければと思った。
するとユダは。
「うん。実は私、過去の記憶がないんだ」
ためらいも、一切の陰もなく、記憶喪失を告白した。ビールで酔って、感覚が麻痺しているわけじゃない。
あまりにも事も無げに認めたので、ペトロはぽかんとしてしまった。
「本当に?」
「うん、本当。気が付いた時には、包帯を巻いて病院のベッドに寝てた。それが私にある、一番最初の記憶」
「そう、なんだ……」
記憶がないことを、不安もなく受け入れてはいだろう。だが、自身の状況をどう捉えているのか、そんな憶測も立てられないほど、ユダは平然としている。
ペトロは、その外側と内側のアンバランスさが気になってしまった。
「記憶がないって。生活に支障はないのか?」
「あんまりないよ。忘れてるのは、自分に関することだけだし。世間一般の常識とかは大丈夫なんだけど、去年以前のことは全く覚えてないから、社会情勢とか必要なことはざっと調べて頭に入れてある」
「知り合いとかも、覚えてないのか? 家族のことも」
ユダは「全く」と首を振った。
「自分の身辺でわかることは、名前と、その時住んでいた場所と、通っていた大学。バッグに入ってた学生証とパスポートが、『私』を証明する全てだった。でも本当に、不思議なくらい普通に日常を過ごせてる。事務所の社長ができるくらいにね」
「家族の顔も名前も覚えてないのに、全然ショックじゃないのか?」
「薄情かな。私って」
そう言って後ろめたさを覗かせるが、自分を薄情だと口にした割には、どこかにいる血縁に思いを馳せるような素振りは見受けられない。
自身の記憶喪失をずっと事も無げに語っているその様子は、ペトロに不思議な感覚を抱かせた。
「あ。記憶喪失だからって、全然気を遣わなくていいからね。見てもらった通り、戦闘にも支障はないから」
「わかった」
「それじゃあ。改めて、私たちの事務所とチームにようこそ。これからよろしくね」
「お世話なります」
ユダは、ペトロが持つグラスに自分のを近付け、軽く当てた。薄いガラスのチンッという音とともに、ビールの表面が波紋を広げる。
何でもないことなのに、ペトロは何となく胸がむず痒くなるのを感じた。
こうして、ペトロの平凡な日々は幕を下ろし、新たな日常が始まった。




