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イア;メメント モリ─宿世相対─  作者: 円野 燈
第1章 Vorahnung─巡り会う─

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7話 失くした過去



「今日は疲れたでしょ」

「まぁ。怒濤の展開過ぎて……」

(今日引っ越して来たばかりのはずなのに、一気に一週間ぶんの時間を過ごした気分だ)

「そうだよね。私もちょっと性急だったかも。ごめんね」


 謝られたペトロは、同行したのは自分の意志なので自己責任だと、首を横に振った。


「環境には慣れそう?」

「こういう初対面の人との共同生活は初めてだけど、悪いやつらじゃなさそうだから安心した」

「仲間を思い遣れるいい子たちだから。同世代だし、すぐに仲良くなれるよ」

「戦いにも、付いていけるようになるのかな」


 使徒の役目を目の当たりにし圧倒されたペトロは、未知の世界に足を踏み入れる怖さに、少し自信が負けそうだった。

 まるで、使徒の活動を始めたばかりの自分を見ているようで、ユダはその表情が懐かしくもあり、守ってあげたくもなってしまう。


「不安になっちゃった?」

「ちょっとだけ。戦ってるのを間近で見てて、なんか、ひたすら迫力に圧倒された」

「AIが作った映像とは違って、リアルだからね」

「でも。やるからには頑張る。弱音を吐きたくないし、逃げ出したりしない」

「頼もしいね。とても心強いよ」


 いったん二人の口が閉じられると、耳栓を外したようにヨハネたちの賑やかなしゃべり声が際立った。

 ペトロは何かを気に掛けるような面持ちになり、少しばかりの憂慮を声に乗せて訊いた。


「……あのさ。戦う時、今日みたいに憑依された人のケアもするんだろ。あれって、毎回やってるの?」

「うん。毎回だよ」

「トラウマを和らげて助けるのは、理解できるんだけどさ。オレたちもトラウマを抱えてるのに、人のトラウマを覗くのは辛くないのか?」

「そうだね……」


 ユダは、泡の消えた琥珀色のピルスナービールを、一口飲んだ。口内に広がった旨味と苦味が、余韻を残して喉を通る。


「辛くないわけじゃないよ。時には、自分のトラウマと似ている人を救うことになるから、自身のトラウマを想起しやすい。だから、戦闘後に不調を訴えることもある。でもヨハネくんたちは、そのリスクをリスクとも思ってないんだ。私たちが戦っているのは、自分自身のためでもあるからね」

「自身の“弱み”が“強み”になる可能性もある、って言ってたこと?」

「いつかはちゃんと向き合わなければならないことが、きみたちの深層にもある。それと目を逸らさずに戦うことで、私たちは強くなれる。そしてそのぶん、多くの人を救えるようになる」


 トラウマを抱える人を救い、自身のトラウマも次第に克服して強くなり、そしてその力で、さらに人を救う。そのループが悪魔の根絶に繋がり、人々の安寧が守られることになる。


「ペトロくんもそのうち、憑依された人の深層に潜らなければならない。最初は怖いかもしれないけど、大丈夫?」


 ペトロを気遣って、ユダは尋ねた。

 ペトロは、人の深層に入るということを想像してみるが、それがどんな感覚で、潜った先がどんな世界なのかは全く想像できない。


「わからない。だけど。自分のトラウマとか知らない人のトラウマとか関係なく、覚悟を決めておいた方がいいのはわかる」

「いい心構えだね。でも、確かに覚悟も必要だけど、忘れないでほしいのが、私たちはただ人々を救うだけじゃないということ。その時が来たら、自分よりも、救う人の気持ちに寄り添ってあげてほしい」


 最も大切なことは、深層潜入をしたその先にあると、ユダは柔和な面持ちと声音で言った。その雰囲気からは、心の底には余計なものは何も落ちていないような、波風のない人生を送って来たようにペトロには感じた。


「みんなは、それぞれどんなトラウマを抱えてるのか知ってるのか?」

「よくは知らないかな。仲間と言っても、そこは、踏み入れることが制限されるエリアだからね。だから、どこの出身とか知ってる過去もあるけど、日常会話の中でふと触れることがあれば、軽く聞くらいにしてるよ」

「そうなんだ……」


 ペトロは、ヨハネとヤコブとシモンを見遣った。三人とも冗談を言い合いながら笑っていて、抱えているものの陰すら窺えず、トラウマがあるようには全然見えない。


「強いんだな。みんな」

「頑張って、強くなったんだよ」


 ユダはこれまでの仲間たちの健闘を想起し、誇らしさで称えた。


「あと……」ペトロは、もう一つ訊いてみたいことがある。だが、訊いていいのだろうかとためらう。


「訊きたいことがあるなら、なんでも訊いていいよ」


 察したユダは、遠慮はいらないと言った。ペトロは迷うが、いつかは訊くことだろうと思い、思い切って尋ねる。


「あのさ……。さっき、記憶喪失って言ってたと思うんだけど……」


 一度は一歩下がったが、やっぱりどうしても気になってしまった。誰かのことに興味を抱くなんてしばらくなかったのにと、自分でも不思議だが、仲間になったのなら知っておかなければと思った。

 するとユダは。


「うん。実は私、過去の記憶がないんだ」


 ためらいも、一切の陰もなく、記憶喪失を告白した。ビールで酔って、感覚が麻痺しているわけじゃない。

 あまりにも事も無げに認めたので、ペトロはぽかんとしてしまった。


「本当に?」

「うん、本当。気が付いた時には、包帯を巻いて病院のベッドに寝てた。それが私にある、一番最初の記憶」

「そう、なんだ……」


 記憶がないことを、不安もなく受け入れてはいだろう。だが、自身の状況をどう捉えているのか、そんな憶測も立てられないほど、ユダは平然としている。

 ペトロは、その外側と内側のアンバランスさが気になってしまった。


「記憶がないって。生活に支障はないのか?」

「あんまりないよ。忘れてるのは、自分に関することだけだし。世間一般の常識とかは大丈夫なんだけど、去年以前のことは全く覚えてないから、社会情勢とか必要なことはざっと調べて頭に入れてある」

「知り合いとかも、覚えてないのか? 家族のことも」


 ユダは「全く」と首を振った。


「自分の身辺でわかることは、名前と、その時住んでいた場所と、通っていた大学。バッグに入ってた学生証とパスポートが、『私』を証明する全てだった。でも本当に、不思議なくらい普通に日常を過ごせてる。事務所の社長ができるくらいにね」

「家族の顔も名前も覚えてないのに、全然ショックじゃないのか?」

「薄情かな。私って」


 そう言って後ろめたさを覗かせるが、自分を薄情だと口にした割には、どこかにいる血縁に思いを馳せるような素振りは見受けられない。

 自身の記憶喪失をずっと事も無げに語っているその様子は、ペトロに不思議な感覚を抱かせた。


「あ。記憶喪失だからって、全然気を遣わなくていいからね。見てもらった通り、戦闘にも支障はないから」

「わかった」

「それじゃあ。改めて、私たちの事務所とチームにようこそ。これからよろしくね」

「お世話なります」


 ユダは、ペトロが持つグラスに自分のを近付け、軽く当てた。薄いガラスのチンッという音とともに、ビールの表面が波紋を広げる。

 何でもないことなのに、ペトロは何となく胸がむず痒くなるのを感じた。


 こうして、ペトロの平凡な日々は幕を下ろし、新たな日常が始まった。




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