16話 ヨハネの燻り
「さて。返信しなきゃならないメールを、先に片付けちゃおうかな」
事務所に帰って来たユダは、汚れてしまったジャケットを椅子の背凭れに掛け、デスクワークを再開した。
ヨハネは給仕室でコーヒーを淹れ、二人分のカップを持って来て一つをユダに渡した。
「コーヒーどうぞ」
「ありがとう。ヨハネくん」
ヨハネにも、途中で切り上げた仕事があった。けれど、コーヒーカップを手にしたままで自分のデスクには戻らず、何やら消化不良の面持ちでユダに質問した。
「ユダ。訊きたいことがあるんですが」
「なに?」
「さっきはどうして、危険があることを承知でペトロを深層潜入させたんですか?」
「理由は、さっきペトロくんが言ってた通りだよ」
メールを一件返信したユダは手を止め、ヨハネの方を見た。
「補足すると。ペトロくんはトラウマと戦ったことで免疫が付いて、もしもまた精神的な負荷を掛けられたとしても、ある程度は冷静に処理できる。感情のコントロールができれば、悪魔からの干渉があったとしても堪えられるだろうと、考えたからだよ」
「それはやっぱり、ペトロを信じていたからですか?」
「そうだよ。彼は、自分を縛れるくらい芯が強い。今は、以前とは少し違う信念を持っているし、使徒としても成長してる彼を信頼してるよ」
「それは、私情込みですか?」
「私情はない……とは、言い切れないかもね」
少し痛い質問をされたユダは、誤魔化しの笑みを見せた。その答えは、ヨハネに少しだけモヤっとさせた。
「それじゃあ……。もしも僕だったら、どうだったんですか」
「ヨハネくんだったら?」
「あとから仲間になったペトロよりも、あなたとともに戦って来た僕の方が使徒として成長できていたら? 今日のように、危険が危惧される深層潜入を僕がやると言ったら、あなたは任せてくれますか?」
「もちろん、信じて任せるよ」
「本当ですか?」
「仲間を信じるのは当たり前だよ」
「それは、ペトロと同じ信頼ですか?」
ヤコブやシモンとは違う信頼を感じて安心したいヨハネは、ユダを信頼する自分の気持ちが変形していると気付きながら訊いた。
問われたユダは少し困った顔をするが、ヨハネの質問の意図を何となく推し量りつつ、誠意を持って答える。
「私情ありを認めちゃった以上、同じとは言えないかもしれないけど、誰かを信頼する理由を関係性で忖度することはしないよ。私たちは、運命共同体だ。戦闘では、みんな平等に仲間だという意識だよ」
「それじゃあ……。ペトロのように僕が死徒の棺に閉じ込められても、心から心配してくれるんですか」
「心配するに決まってるじゃないか」
「傷付いた心の支えにも、なってくれるんですか」
「そうだね。きみがそれを求めるなら」
「それも、仲間だからですか」
「仲間なら、支え合うのは当然だからね」
ユダは、微笑みを浮かべて言った。
その微笑みにも言葉にも配慮が隠れていることは、ヨハネもわかっている。それが仲間の自分に対する気遣いで、彼の優しさだということも。
「納得できる答えだったかな」
「はい。大丈夫です。少しだけ理由が気になっただけなので。今回は、当然の采配だったと思います」
今までは、自分へ向けられる優しさが仲間の中で一番だと勝手に思っていた。しかし、それが二番目になってしまった悔しさは、ユダの優しさだけでは補えない。
シモンは帰宅してから、脱力してソファーに腰掛けていた。宿題をやらなければいけなかったが、まだそんな気力はない。
ヤコブはシモンを気遣い、カフェオレを作って持って来た。
「悪い。ハーブティー切れてた」
「ううん。ありがとう」
シモンはカップを両手で受け取り、冷ましながら一口飲んだ。ミルクと砂糖の甘さが、今はすごくホッとする。
「寝てなくて大丈夫か?」
「うん。落ち着いてきたから平気」
ヤコブはシモンの隣に座り、ミルクなしのコーヒーを飲んだ。
落ち着いてきたと言ったが、シモンの表情はまだ晴れない。使徒の役目を果たせなかったことも悔しいのだろうが、ヤコブにはその原因を引き摺っているように見えた。
「……憑依された人、シモンと似た境遇だったんだろ?」
ヤコブは、シモンの様子を窺いながら訊いた。シモンの過去は、以前少しだけ聞いて知っていた。
「うん。深層に着いて、落ちてるものを見てすぐにわかった。でも、気持ちも理解できるし、大丈夫だと思ったんだ……。だけど、ものすごく苦しそうで、絶望してて。ボク、なんて言ったらいいのかわからなくなっちゃって」
「同じ境遇だと理解しやすいから、本当に掬ってほしい言葉は手に取るようにわかる。だけどその反面、深く干渉し過ぎて相手の感情に引っ張られやすい。それが、深層潜入のリスクだ。だから、今回は失敗じゃない。仕方がなかったんだ」
「仕方がなかった……」
気にし過ぎるなとヤコブは言うが、シモンはどうしても割り切れなかった。




