37話 傷の旅─溶け始め①─
トレプトー=ケーペニック区から移動した二人は、ミッテ区のカイザー・ヴィルヘルム記念教会前に着いた。
第二次世界大戦の際に破壊されたままの姿を保つ旧教会堂鐘楼が現存し、その両サイドに一見して教会とは思えない六角形の新鐘楼と、八角形の新教会堂がある。
それぞれの壁全面に嵌め込まれているのは、数え切れない枚数の小さく四角い、青いガラス窓だ。ステンドグラスの代わりとなり、陽光が射すと海の色を放って訪れる人々の心を凪のように穏やかにしてくれる。
道路を挟んで教会を見上げるペトロは、当時のことを想起して懐かしむように話し始めた。
「ここのクリスマスマーケット、あの時初めて来たんだ。いつもは家からも近いアレキサンダー広場とか、赤の市庁舎前のマーケットに行ってたんだけど、すぐそこにある動物園に行きたかったから遠出してこっちまで来たんだ。教会の周りにたくさんのお店が並んでて、ツリーやクリスマスピラミッドも立ってて、まるで遊園地みたいだった。横断歩道を渡ってる時から食べ物の匂いがして、ゲブランテ・マンデルンを食べたくなって、弟たちと一緒に母さんにおねだりしたんだ」
「食べ物の匂いに唆られると、我慢できないよね。特にクリスマスマーケットに来ると、あれもこれもってなっちゃう」
「弟は食べるのが好きだから、まさにそれでさ。わがまま言ったんだけど、誕生日だから今日だけだよって母さんは買ってあげてた。最終的に両手に食べ物を持っちゃって、どこの食いしん坊だよって感じだった」
その時の弟の姿を思い出し、ペトロは微笑した。ユダも想像して目を細めた。
「そのかわいらしい姿が、目に浮かぶようだよ」
「弟と妹は、双子だけど性格が全然違ったんだ。弟の方は欲望に正直で、妹は自制心があって。母さん曰く、弟は父さん似で、妹は母さん似だって言ってた。思い返すと確かにそうだなって思うよ」
「ペトロくんは、どっち似なの?」
「聞いたら、オレは両方に似てるけど、母さんの方の血が強いんだって」
「確かに。いろいろ我慢してるもんね」
「親と似てるところがあるって言われると、なんとなく気恥ずかしいな……」
ペトロは、控えめにはにかんだ。
追想し懐かしむのを終えると、表情がしみじみとした様子に変わった。
「家族で過ごす時間は幸せだった……。夜だったから、鐘楼と教会堂が内側からの光でガラス窓が青く光って、それが水族館の水槽みたいでキレイでさ。辺りもイルミネーションで埋め尽くされて、夢の中にいるみたいだった……。あの出来事も、本当に夢だったらよかったのに……」
ペトロは意識せず、隣にいるユダのコートの袖を掴んだ。
「まるで、昨日のことのように思い出せる。一瞬にして、阿鼻叫喚の世界に変わったことを」
ペトロの目だけに、現在と当時の光景が重なる。
突進して来たトラックが出店の小屋を破壊する音と、混乱して逃げる人々の悲鳴が、ペトロの耳に甦る。
三年前の絶望が鮮明に脳裏に再生され、だんだんと呼吸が早くなる。胸が苦しくなったペトロは、身体を縮めた。
「……っ」
「ペトロくん!」
ユダはペトロの身体を支え、背中を擦った。
「大丈夫?」
「……大丈夫……じゃ、ないかも。あんまり」
いつものように気丈に振る舞おうとしたペトロだが、苦笑いをするのが精一杯だった。
どこかで休むことにし、二人は近くの飲食店に入った。
テラス席に座り、ペトロはカモミールティーを飲んだ。しばらくして、気持ちも少しずつ落ち着いてきた。
「落ち着いた?」
「うん」
「この前の戦いでトラウマを見せられたから、思い出しやすくなってるのかもね」
「本当にあれ、卑怯なやり方だよ。怨念の集合体とか言ってたっけ。あれがあいつら死徒のやり方ってことだけど、抉られるのはキツイな」
整理でき始めていたトラウマを見せつけ、それまでの努力をゼロにする。それだけでなく克服への道を遮断し、絶望の沼へと引きずり込もうとする。
使徒にとっては拒絶したい敵だが、それが死徒の戦い方だ。
するとユダは、気になっていたことを訊いた。
「……ねえ、ペトロくん。どうして今日は、私を誘ったの?」
「うーん……。ユダとなら、行けそうだと思ったから」
聳え立つ近代的なビルの方に視線をやりながら、ペトロは話した。
「ここには毎年献花に来て、自分の中ではいったん整理を付けたつもりだったんだけど、やっぱりそう簡単には片付けられてなくてさ。まだ収め切れてなかったものがあったんだってことを、この前の戦いで知った。でも、オレの戦いはまだ終わってない。あいつはきっとまた来る。そしてまた、オレの精神を抉ってくる。だから勝つためには、ちゃんともう一度向き合わないとダメだと思ったんだ。収め切れてなかったものを確認するためにも。だけど、一人じゃ行ける気がしなくてさ。ユダが一緒なら、大丈夫な気がしたんだ」
「そっか……。ちゃんと収められそう?」
ユダがそう訊いてきて、ペトロは少し考える素振りをする。そして、ビルとは反対側の教会堂に視線を移した。
「あそこにはまだ、オレの罪が残ってると思ってた。それをもう一度拾い直して、仕舞おうとしてた。でも、それはできなかった。もう何も残ってなかったから……。実は、父さんと顔を合わせるのが嫌だったんだ。父さんは今でも母さんのことが大好きだから、助けなかったオレのことを恨んでるんじゃないかと思ってたから」
「側で話を聞いてて思ったんだけど。きみが抱えていた罪悪感は、家族を守れなかったことと、お父さんへの後ろめたさもあったんだね」
「だけど今日、偶然会って、背負わせてごめんって言ってくれて、父さんの後悔も知って、ただの思い込みだったってわかった。そしたら、少し楽になれたんだ。その心持ちでここに来たけど、三年前に持って帰ったもの以外は、何もなかった」
「じゃあ、もう忘れ物はない?」
「痛みは消えてないけど、たぶん……」
ペトロは胸に手を当て、少し穏やかになった表情で言った。




