3話 新しい日常
ペトロは大きめのキャリーバッグを持って、先日も来た使徒が運営する事務所のある建物に訪れた。
使徒は、この一棟を借りて共同生活をしていて、ペトロも今日からここに住むことになったのだ。最初は他人同士だったので、チームワークを高めるために始めたことだ。
一度オフィスに顔を出したあと、ユダに案内されて事務所の隣の住居専用口から中に入った。旧集合住宅の玄関ホールはレトロで、かわいらしいタイル張りだ。
「使ってもらうのは、三階の部屋になるから」
伝統的な建物には、残念ながらエレベーターなど近代的なシステムは取り入られていない。どれだけ重たい荷物を持っていようが、自力で階段を上らなければならない。
踊り場には小窓があり中庭が見えたが、ペトロはチラッと見て後に付いて行く。
上がるついでに、ユダは二階も案内してくれた。
階段の正面の部屋の鍵を開け、短いストロークの廊下を経て入ると、伝統建築らしい板張りの床に、天井の高い広々とした部屋だ。
「ここは、みんなで食事をするリビングルーム。朝と晩は、必ずここで顔を合わせるようにしてるんだ」
通りに面したバルコニー付きの窓が三つあり、日当たりがいい。床以外は白く、壁と天井の繋ぎには、飾り彫りされたモールディングが施され、レトロさを邪魔しないシンプルなデザインのペンダントライトが下がっている。
部屋の真ん中には、六人ほどが座れる白い天板のダイニングテーブルがあり、寛ぎ用のソファーや観葉植物も置いてあるが、比較的シンプルな部屋だ。
「めちゃくちゃ広いですね」
「もともとシェアハウス用だったんだけど、私たちが使いやすいようにリノベーションされてるんだ。他の部屋も同様にね」
「自分たちでやったんですか?」
「まさか。大家さんが、業者に頼んでくれたんだ。それから、敬語は使わなくていいよ。今日から仲間なんだから」
リビングルームの隣は現在留守中の部屋で、住人の二人はあとで紹介してくれるようだ。
二人はさらに階段を上って、ようやく三階に着いた。階段の正面の部屋は、ヨハネが一人で使っている。ペトロは、その隣の部屋に案内された。
「ここが、ペトロくんの部屋」
シェアハウス用だった部屋はリビング同様に仕切りがない、広いワンルームだ。バルコニー付きの窓は二つあり、反対側の壁も二つの小窓付きで、そこからも中庭が見える。背板のない天井に届きそうな大きな棚は、部屋を仕切るために置いてあるようだ。
この部屋にも観葉植物があり、白い壁にはアート作品が三点飾られているが、それでも余白がたっぷりある。
ペトロが先に送っていた三つのダンボールも、無事に到着していた。
「たぶん。ペトロくんが住んでた部屋と、間取りはさほど変わらないと思うけど。玄関横がバスとトイレで、その扉がキッチン。それで……ここが、ペトロくんのベッドルーム」
ユダはそう言って、廊下の扉の横にある部屋のドアを開けた。多少狭くはあるが、ちゃんとベッドが用意されていて、サイドボードに間接照明もある。
「え? オレのベッド……」
少し不思議に思ったペトロは、仕切り棚の方を見た。棚の向こうの窓際にはもう一つ、ネイビーのカバーが掛かったベッドがある。
「あれ。言い忘れてたかな。基本的に、ルームシェアしてるんだよ。ペトロくんは、私と同室」
「同室!?」
「嫌だったかな?」
「……まぁ。一応、大丈夫だけど……」
用意してくれた側としては、我儘は言えない。それに、仲間になるのだから嫌とも言いづらいと、ペトロは不満を飲み込んだ。
(まぁ。ちょっと狭いけど、ベッドはちゃんとしてるし。リビングとも区切られてるし。寝られるならいっか……)
「ごめんね、狭くて」
ペトロが部屋を覗きながら自身に言い聞かせていると、後ろに立っていたユダも身体を重ねるように覗いてきた。
(近っ!)
顔のすぐ横から声がして、服越しにほんのり体温を感じたペトロは、少しだけ驚いた。
「でも。他は共有スペースだから、キッチンも自由に使ってくれて大丈夫だよ。クローゼットや収納棚もあるから、遠慮なく使って。この部屋に住んでた人が代々使ってたから、ちょっと年季は入ってるけど」
「わ……わかった」
「洗濯も、それぞれの部屋でやってもらってるんだけど。それで構わない?」
「大丈夫……です」
「よかった」
ペトロの疑念が伝わっていないのか、ユダはにっこりと笑った。
ユダは一度事務所へ戻り、ペトロは荷解きを始めた。ベッドルームにはほとんど収納がないので、リビングの棚や、ユダのベッドルームの方にあるクローゼットに仕舞った。
(なんか、軽く騙されてる気がするんだけど……)
同室ということを事前に聞かされていなかったおかげで、再びユダを訝しく思ったが、あの人当たりの良さは天然物のようだ。大事なことを言い忘れていたのはわざとかそうでないかは、グレーゾーンだと思っているが。
片付けの最後に、ベッドルームのサイドボードに写真立てを置いた。
(でも。オレ自身のためになるなら……)
写真を見ながら、使徒になった目的を再確認していた時だった。
「ペトロくん。片付けは終わった?」
「へっ!?」
開けていたドアから突然ユダに声を掛けられて、ちょっとびっくりしてしまった。同室ということは鍵も同じで、出入りも自由ということだ。
「よかったら、下で一緒に一息入れない?」
ちょっと心臓に悪いティータイムの誘いを受け、ペトロは事務所の応接スペースでコーヒーをもらった。
呼んだのは、事務所の契約書を書いてもらいたかったからだ。契約書と言っても必要な手続きというだけで、それほど拘束力がある書類ではない。
「あのさ。他に、言い忘れてることないよな?」
ペトロはサインをしながら、念のために確認した。
「ユダ。〈バンデ〉のことは、話しました?」
「あ。そういえば、それはまだ教えてなかったよね」
「〈バンデ〉?」
また騙されかけたかと思うと、ナイスパスをしてくれたヨハネにペトロはちょっと感謝した。
「〈バンデ〉は、仲間同士で結ばれる絆の関係だよ」
「普通の仲間とは、違うのか?」
「仲間の中でパートナーとなる相手が現れると、右腕か左腕に相手の名前が浮かび上がるんだ。その相手と信頼関係を深めて強い絆が結ばれると、唯一無二の存在となるんだ」
〈バンデ〉は互いの精神的な支えにもなり、絆が結ばれれば戦闘でも有利になるのだが、名前が現れるまで誰が自分の〈バンデ〉となるかはわからない。
「二人は〈バンデ〉なのか?」
「僕たちは……」
「私とヨハネくんには、まだ名前が現れてないんだ。まだ紹介してない二人が、今のところ使徒で唯一の〈バンデ〉だよ。そろそろ帰って来るんじゃないかな」
壁掛け時計を見ながらユダがそう言った、ちょうど時。呼び出しブザーも鳴らずに、事務所の扉が開いた。
「ただいまー」
「ヨハネ。賭けの景品。お前の好きな銘柄のビール、買って来てやったぞ」
入って来たのは、背が低く、リュックを背負った金髪の愛嬌のある少年と、少々気が強そうな褐色の肌の黒髪の青年だ。黒髪の彼の方は、ペトロが巻き込まれた戦闘にいたヤコブだ。少々悔しそうに、瓶ビールがぶつかる音がするエコバッグを提げている。
ちなみに賭けとは。ペトロが仲間になるかを、二人で賭けていたのだ。ユダとヨハネから印象を聞いたヤコブは、断られると思っていた。
「あ。この人が、ユダが戦闘中にナンパした人?」
「シモン。ナンパじゃない」
ヨハネが速攻で訂正した。ナンパはあながち間違ってはいないが、ふざけたヤコブがシモンに吹き込んだのだろう。
「二人とも。彼が仲間になってくれることになった、ペトロくんだよ」
「なぁ、ユダ。ちょっと、話がスムーズに進み過ぎじゃねぇか? どんな勧誘したんだよ。出もしない報酬とか、悪魔何体倒したら海外旅行プレゼントとか言ったんじゃないよな。詐欺だぞ、詐欺」
「そんな悪徳商法してないから……。ほら。二人も自己紹介して」
「俺は、ヤコブ・シーグローヴ。事務所の稼ぎ頭だ。よろしくな」
ペトロに対して、早速謎のマウントを取るヤコブ。
「一応だけど」
「一応じゃねぇよ。本当のことだろ、ヨハネ」
「ボクは、シモン・ヘンドリクセンです。ボクは中等教育学校在学中で、広告の仕事はまだちょっとしかやっていです。よろしくね」
「よろしく。この二人が、〈バンデ〉?」
「そうだよ。ヤコブくん、シモンくん。腕、見せてあげて」
ヤコブは左腕を、シモン右腕の袖を捲くって見せた。確かにユダの説明通り、前腕の裏に薄く文字が浮かび上がっている。
文字はヘブライ語で、ヤコブには「סיימון」とシモンの名前が、シモンには「ג'ייקוב」とヤコブの名前が刻まれている。
「本当だ……。ていうか。二人とも、広告で見たことある」
「ヤコブくんは、シューズメーカーやアウトドアメーカーに起用してもらってて、シモンくんの方は、チョコレート専門店のイメージキャラクターや、お菓子の広告をやってるよ」
「あ。このグミのやつだよな」
コーヒーのお茶請けに出ていたクマの形のグミが、シモンがイメージキャラクターを務めている商品だ。
二人が起用されている広告は、雑誌や街の至る場所に掲出されていて、周囲の人々にとってヒーローの使徒はとても身近な存在だ。
「シモンは、スイーツ系商品担当だよな」
ヤコブは、自分の肩くらいにあるシモンの頭をポンポンする。
「担当っていうわけじゃないけど。雰囲気が、甘いものにピッタリなんだって」
「かわいらしさがあるからな。シモンは」
「ペトロくんも、勘違いされるほど中性的だから、もしも仕事の依頼が来るとしたら、女性向けの商品もあり得るかもね」
「ええー。ていうか。やる気ないんだけど」
散々性別を勘違いされナンパもされてきたペトロは、ユダの話にあからさまにうんざり顔をする。でもシモンは、その外見を見て納得する。
「それは、ありそうだよね。色白だし、目の色も碧眼でキレイだし。女装似合いそうだよね」
「それを理由に推さないでくれ」
「私も、推してもいいと思うけどなぁ」
「来ても断る。オレは、バイトするからいい」
ペトロは眉頭を寄せながら、ミルク入りのコーヒーを飲んだ。
しかし、その直後。眉間の皺を深くして、突然の不快感を露に胸元を抑える。
読んでくださり、ありがとうございます。
補足ですが、バンデの名前はヘブライ語を使っています。知ってる方もいるかもですが、ヘブライ語は右から読むんですよ(^^)




