20話 陰の中。後退り。足踏み
それから、一時間半後。ヨハネは再びホテルを訪れ、先程と同じ女性スタッフがいたので、ハーロルトは戻っているかと訊くと、フロントの裏から呼んで来てくれた。
出て来た制服姿のハーロルトは、さすがに足を止めて驚いた。
「ヨハネ、くん!? どうして……」
「久し振り。ハーロルト」
ヨハネは、少しのあいだ彼を借りてもいいかと尋ね、チェックイン時間が始まる前の今なら大丈夫だと言ってくれた。
何かを察するハーロルトは少し怪訝な表情を浮かべ、上着を羽織ってヨハネに付いてホテルを出た。
二人はホテルのすぐ近くの、大通りに面した有名コーヒーチェーン店に入り、注文したホットのカフェラテを持ってテラス席に座った。
空は高く広く、こちらの街の街路樹も葉の色を変えて、すっかり秋模様だ。街の雰囲気も、向こうとほとんど変わらない。カフェの目の前の交差点付近は飲食店やショッピングモールも多く、買い物や映画を楽しみに休日の街を歩く人々も、ニットを着やアウターを着ている。
「だいぶ涼しくなったよな。こっちは、向こうとそんなに気温は変わらないんだな」
「東側と西側だけど、そうだね」
「それが、ホテルの制服なんだな。似合ってる」
「そう? ありがとう」
「ホテルの手伝いは、だいぶ慣れたか?」
「うん。前から、時々やってたしね。戻って来たらいろいろ手慣れてるから、みんなに驚かれたよ」
「それじゃあ、期待もされてるのか」
「どうかな。まだ、これからだよ」
ハーロルトは、温かい白いマグカップを両手で包むように持っている。他愛のないヨハネとの会話中も、やはり何かを察して目を合わせていない。
「復学の勉強も、進んでるのか?」
「うん。毎日やってるよ」
「どこの大学に編入するか、もう決めたのか?」
「ううん。まだ」
「まだなのか。オイゲンさんが結構前のめりだったから、もうすぐ編入試験もするのかと思ってた」
「父さんは、どこの大学にするんだ、いつ編入試験を受けるつもりだって、毎日急かすように言ってくるよ」
耳にタコができるくらい聞いたハーロルトは、少しうんざりした様子だ。
「自宅から通うか一人暮らしするかで、いろいろ選択肢あるもんな」
ヨハネはカフェラテを冷まそうと、息を吹き掛ける。きめ細かな泡が、ふるふると震えた。この店のホットカフェラテは、砂糖を入れてもミルクとコーヒーのバランスがいいから、ヨハネはわりと好きだ。
「……ヨハネくん。あんまり長く抜けると迷惑を掛けるから、話すことがあったら早く話してほしいんだけど」
痺れを切らしたハーロルトから、話を促された。
「あ。そうだよな。ごめん……。じゃあ、本題に入る」
ヨハネは少しだけカフェラテを飲み、カップを置き、真剣な面持ちで話を切り出す。
「こっちに戻って来る気はないか」
その一言目で、ハーロルトの心が一歩後退る。
「やっぱり、その話をしに来たんだね……。帰る時に言ったよね。僕は怖くなったんだ。もう家の宿命とか、考えたくないんだ」
「それはわかってる。お前がヨセフに、どれだけ血腥いものを見せられたのかは想像もできないけど、動揺して混乱して、恐怖を抑えられなかったんだよな。一度は帰るのを思い留まった気持ちを、簡単に上書きされるくらいの恐怖だったんだよな」
「本当にわかったように言わないでよ」
自分を連れ戻したいからといって理解した気になるなと、ハーロルトは上辺だけの同情を拒否し、また心を引いた。しかし。
「わかるよ」
ヨハネのその真摯な声が、上辺だけの同情のようには聞こえず、ハーロルトは顔を上げた。
「唐突に恐怖に襲われた精神が、どれだけ震えて、自分を守ろうとして逃げる気持ちは、少なくともわかるつもりだ」
ヨセフに、先祖たちの記憶を見せられた直後のハーロルトの顔色は、嘔吐の跡があるほど悪かった。その時の状態から、ヨハネたちが棺に囚われて、トラウマをリアルに体験させられるのと同等、あるいはそれ以上だと想像ができた。
「何を見せられたかは、思い出すことも嫌だろうから訊かない。でもお前は、戦えるんだよな。死徒はクアラデム家の敵なんだから、本当なら戦うべき相手なんだろ?」
「だから戻って戦えって、強要するの?」
ハーロルトは、さらに心をニ歩引いた。
「強引に連れ戻すつもりで、来たんじゃない。ハーロルトが、クアラデム家の宿命に対してどう思ってるのかを、聞きたいんだ。その上で、話し合って決めさせてほしい」
「僕が、宿命をどう思ってるのか……?」
また後退ろうと構えていた気持ちが、一時留まった。
ヨハネは、前のめりになってハーロルトのプレッシャーにならないよう、彼の気持ちを確認する。
「オイゲンさんが連れ帰ろうとした時、お前は帰るのをやめた。それは、現実に起きていることを、ちゃんと見ることにしたからだったんだよな。ちゃんと考えたいことって、クアラデム家の宿命のことだよな。オイゲンさんと再会した時に、初めて宿命のことを聞かされて、自分がやるべきことを知ろうとしてくれたんだよな」
「そうだよ」
「危険だと知りながら戦闘を見に来たのも、自分が戦う可能性を、考えてくれたからだよな」
「そうだよ。そうだけど……」
ハーロルトの心は、後退ろうとしていた場所で止まった。
目を伏せるハーロルトは眉を曇らせ、テーブルの上のマグカップから離した手を握り、膝の上に乗せる。
「父さんから宿命のことを初めて聞かされて、そんな大事なことをどうして隠してたんだって、苛立った。それを僕に何も言わなかった父さんが、無責任に感じたんだ。それなら。責務から目を逸らす父さんの代わりに、僕が向き合おうって……。でも。実際にきみたちの戦いを見て、不安になった。傷だらけでボロボロになって、あんな厳しい状況に身を投じる勇気は、僕にはない。ヨセフくんに先祖たちの記憶を見せられて、余計に無理だと思った」
「怖いと思うのは当然だ。誰もが最初から戦いに慣れてたわけじゃないし、死徒との戦いも恐怖が全くないわけじゃない」
「それでもきみたちは、自分を犠牲にするのを厭わないと思って戦ってるんだろう!?」
あの死徒との戦いを見て、死と隣り合わせでも恐れない覚悟で挑んでいるように見えたハーロルトは、使徒は常軌を逸していると感じていた。
顔を上げて言われたヨハネは、鼻から息を漏らし、改めて真剣な面持ちで言う。
「ハーロルト。使徒は、最初から死ぬつもりで戦ってると思ってるのか?」
「違うの?」
「確かに。人々を守るためなら、どれだけ傷だらけになって血を流しても、戦い続ける覚悟でいる。でも、自分の命を犠牲にするつもりで戦ってる仲間は、一人もいない。最初から、生き続けるために戦ってるんだ。守るべき命は、自分が生き残らなければ守れない。だから、死ぬ覚悟の仲間は一人もいない。寧ろ、最初から死ぬ覚悟しかないやつは、戦う資格はない」
使徒の信念、存在意義、果たさなければならない使命。幾度も戦いを繰り返してきた彼らの思いは、重ねた戦いの分だけ大きく、重厚で、強い意志となっている。
ヨハネの眼差しを見ただけで、たくさんの命を背負った覚悟が垣間見えた。その強い意志に気圧されたハーロルトはまた目を伏せ、心を一歩下げた。
「……やっぱり、僕には無理だ。僕には、誰かのために死ぬほどの痛みを負う覚悟はないよ」
「でも、ハーロルト」
「僕があそこにいても、きっと何もできない。戦える力があっても、みんな、こんな臆病者に守られたくないでしょ」
ハーロルトの表情は、宿舎を去る時よりも気鬱になっている。一度は宿命と向き合おうとした気持ちは、もうほとんど消えかけているようだった。
「それじゃあ。もう、前向きに考えることはできないのか?」
ヨハネは最後の確認の意味で、ハーロルトの決断を訊いた。
ヨハネの問い掛けに、ハーロルトは数秒口を噤んだ。膝の上の手を組んで、テーブルや地面に視線を泳がせる。
すると。少しためらいがちに、もう一つの正直な気持ちを口にする。
「こんなところにいていいのかなって、時々思うことはある。ヨセフくんのせいにして、逃げてるのかなって……」
「いや。それは逃げじゃないよ」
「でもきみたちは、帰るって言った僕をそう思ったんじゃないの?」
「誰も、そんなこと思ってないよ」
戻りたくない理由の一部には、期待させて裏切ったヨハネたちへの後ろめたさもあるようだった。
そんな罪悪感を窺わせたハーロルトに、ヨハネはもう一つ尋ねてみる。
「なぁ、ハーロルト。なんでまだ、編入する大学を決めてないんだ。オイゲンさんに毎日のように言われても決めないのは、どうしてだ」
「それは……」
「ハーロルト。もしかして、お前は……」
ところがそこへ、無情にも横槍がやって来てしまう。
「ハーロルト。こんなところで何をしている。休憩時間は、もう終わったはずだろう」
「父さん」
「オイゲンさん」
黒のスーツで現れたオイゲンは、厭わしげに眉頭を寄せてヨハネを見下ろす。
「さっきホテルのエントランスで見たのは、やはりあなたでしたか」
「すみません。オイゲンさんの許可もなく、ハーロルトを連れ出して……」
ヨハネは立ち上がり謝罪しようとするが、オイゲンは排斥の声とともにヨハネを責め立て始める。
「ハーロルトを、連れ戻しに来たんですか。息子を、危険な目に遭わせるために!」
「いえ。僕は……」
「人々を守るはずの使徒は、無慈悲なんですか!? 念願の再会を果たした私たちを、強引に引き裂こうとするんですか! せっかく安寧を取り戻した家庭に、また悲しみの雨を降らせることも厭わず、ハーロルトを犠牲にさせるために!」
「違います。話を聞いてください!」
「息子を連れ戻すことは、絶対に許しません。使徒だろうが誰だろうが、ハーロルトは私が守る!」
「父さん。少しは話を……」
「今すぐ帰ってくれ!」
ハーロルトが仲介しようとした声も耳に入らず、オイゲンはヨハネを激しく拒絶した。だが誤解されたままでは、ヨハネも帰ることはできない。
「聞いてください! 僕は、あなたたちの家族を奪うつもりではありません。ハーロルトが拒絶するなら、彼が追う夢が叶うことを願うだけです。ですが、僕たち使徒には今、彼の力が必要なんです。あなたたちの言う『フェアラッセン』と対等に戦うには……!」
「聞こえなかったか。今すぐ帰ってくれと言ったんだ! ハーロルトから離れてくれ!」
しかし、ヨハネを受け入れる余地のないオイゲンは聞く耳を持たない。
「ですが、オイゲンさん……!」
どちらも一歩も引かず揉めていると、「キャアッ!」と悲鳴が聞こえて来た。それが一瞬で周囲に伝播したように、混乱を伴った騒ぎ声が発生した。
ヨハネが振り向くと、人形をした黒い塊が人に覆い被さり、襲っている。
「あれは……?」
オイゲンはメガネを掛け直し、眉間を寄せて凝視する。それが何かを知っているハーロルトは一驚し、ヨハネは信じ難い光景に目を見開き、疑った。
「まさか!?」
(なんで、こんなところに悪魔が……!?)




