9話 帰ってきた日常
ペトロたちが住むベツィールフ州から向かって、西南方面にある都市、ノルック州。世界的にも有名な大聖堂がシンボルの街に、トラウゴットホテルはある。
伝統的な赤レンガの建築を周到しつつも、全面に縦長の大きな窓ガラスを取り付けた外観。客室はスイートルームを合わせて全180室で、外観と違ってスタイリッシュな仕様で、上階のシティービューの客室からは、大聖堂が望めると人気だ。四つのレストランに、フィットネスジムやスパもあり、設備も充実している。
帰って来たハーロルトは、ホテルの制服である水色のシャツにネイビーのパンツスタイルで、フロントに立っている。休暇で帰って来くると必ず手伝っていたので、久々の仕事だ。
今はちょうどチェックインの時間帯で、宿泊客の受付をしている。
「こちら、ルームキーでございます。ごゆっくりと、お寛ぎくださいませ」
仕事はそれだけでなく、予約などの電話受付や、宿泊者からのクレームにも対応する。
「申し訳ございません。すぐにお取り替え致します」
「どうしたの?」
受話器を置くと、一緒にフロントに立っている先輩の女性従業員が尋ねた。
「スタンドライトの電球が切れたみたいなので、取り替えて来ます」
そう言うと、備品室から電球を取って、お客様の部屋へと急いだ。
他にも。交通機関や、周辺の飲食店や観光スポットを訊かれて、地図を用意して案内したりと、普通の従業員並に働く。一緒にフロントを担当する従業員たちは、その仕事ぶりに感嘆した。
「なんか……。ハーロルトくん、すごいな」
「え。そうですか?」
「うん。だって、前に手伝った時は接客もぎこちなかったし、電話対応もド緊張してたし」
「チェックインの時なんて、宿泊者リストとお客様の名前を照合するだけなのに、普通に確認する名前間違えるし」
「僕、そんなポンコツでした?」
そう言われてみると、先輩たちには迷惑を掛け、宿泊客も待たせてばかりだった。以前までの記憶と現在の自分の働き振りには、だいぶ差異があった。
「慣れてないから、仕方なかったけど。でも、今のハーロルトは見違えた! あの頼りないハーロルトは、どこへ行ったんだ!? って感じだな」
「接客は完璧だし。電話対応も慣れてるし。ちゃんと、宿泊するお客様の名前間違えないし」
「何より、言葉遣いと振る舞いが別人! もう何年もここで働いてるみたいだ」
(別人……)
そう言われたハーロルトは、もう一人の自分がいたことを思い出す。だが、邪魔な感情が湧き上がって来ないように振り払った。
「別人だなんて、酷いですよ。僕は僕です」
「記憶喪失のあいだに、いったい何があったの」
「どっかの会社に就職して、みっちり扱かれたのか?」
「記憶がないんですから、自分が何をしてたかなんて知りませんよ」
そこへマネージャーの女性が来て、ハーロルトの退勤時間を告げた。大学生のハーロルトの出勤時間は八時間勤務で、午後六時までと決められていた。
「それじゃあ、お疲れさまでした」
「また明日ね」
他の従業員より少し早めに上がり、ロッカールームで私服に着替える。
ずっと立ちっぱなしの仕事なので、手伝うといつも足は棒になっていた。けれど戻って来てからは、疲労感というのは以前より少し感じ難くなっているような気がする。
「別人か……」
(記憶喪失中の僕は、事務所の社長だったらしいし。その感覚が、身体に染み付いてるんだろうな)
「記憶喪失だったのは困るけど、将来役に立つ経験を積めたことを考えると、悪いことでもなかったかな」
いろいろと受け入れ難い経験をしていたようだが、将来的に役立つ経験を知らないうちでも重ねられていたと捉え、強引にプラスに考えることにした。
ハーロルトは、自転車で帰宅した。自宅は、ホテルから西へ二十分ほど行った住宅街の一角にある、レトロな雰囲気の一軒家だ。サンルーム付きのベージュのレンガ造りで、屋根裏部屋にも出窓がある。
「ただいま」
「お帰りなさい。ハーロルト」
リビングルームに顔を出すと、小柄の母・エミーリエが出迎えた。金髪ショートボブで、その癒やしを与える微笑みは、しっかり息子に受け継がれている。
「今日も疲れたでしょ。他の従業員さんたちに、迷惑掛けなかった?」
「大丈夫だったよ。仕事も、だいぶ慣れてきた」
「そうなの? 前に手伝った時は、しんどいって言ってたのに」
「帰って来てから、ほぼ毎日行ってるし。他の人の動きを見れてば、どうすればいいのか何となくわかるしね」
以前とは違って成長著しい息子に、エミーリエは「まぁ」と感嘆する。
「しばらく会わないうちに、本当に見違えたわね。すぐにでも就職できそうだわ」
「それはまだ早いよ」
「ただいまー」
そこへ、妹のヴァネサも帰って来た。ヴァネサは地元の大学に通う二十歳で、金髪のストレートロングヘアで、健康的なボディーをしている。
「おかえりなさい。今日は、お友達と飲んで来るんじゃなかったの?」
「みんな彼氏優先して、キャンセルになったー……。あっ。お兄ちゃん。あとで、勉強見てほしいとこがあるんだけど」
「ヴァネサ。ハーロルトも復学するために、勉強で忙しいのよ」
「えー。ちょっとくらい、いいでしょ?」
兄のハーロルトが大好きなヴァネサは、腕に抱き付き甘える。
「教えたいのは山々だけど、今日はホテルの手伝いにも行って疲れたんだ。だから、明日でもいい?」
「わかったわ。明日もバイトないから、帰って来たら見てくれる?」
「いいよ」
「やったぁ! さすが、頼りになるー!」
オイゲンは今日は少し帰りが遅くなると連絡があったので、三人で先に夕食を摂った。
夕食の後。ハーロルトは自室で、専門書とタブレットとノートパソコンを開いて、経営学の勉強を始めた。
一人部屋で、カーテンやカーペットの色使いはグレーや青で抑えめ。本棚の一部には映画のDVDや音楽CD、集め始めたばかりのレコード盤が数枚並んでいる。レコードプレーヤーは持っていないので、聴きたい時はオイゲンの書斎に行って聴いている。
二時間ほど集中したハーロルトは、息抜きになりそうな動画でも観ようとスマホでアプリを開いた。
「この冬、炭酸飲料から二種類の新フレーバーが登場!」
流し見ていると偶然、ペトロの炭酸飲料のCMが流れた。オレンジの橙色とアップルの赤色の衣装のペトロが、それぞれのフレーバーをおいしそうに飲み、視聴者に向かって微笑んだ。
ハーロルトは動画を途中まで観て、アプリを閉じた。
飲料のCMを観たせいか、喉の乾きを覚えたので、飲み物を取りに一階へ降りた。
リビングルームの扉を開くと、オイゲンが帰って来ていた。ダイニングの椅子の背凭れに、スーツのジャケットとネクタイを掛け、夕食を食べていた。エミーリエは夫の夕食に付き合い、チーズをつまみに赤ワインを飲んでいる。
「お帰り、父さん」
「ハーロルト。聞いたぞ。今日も、仕事ぶりがよかったそうだな」
「迷惑を掛けることが少なくなって、ホッとしてるよ」
「前倒しで就職するか?」
「それ。さっき、母さんも同じこと言ってた」
ハーロルトはキッチンへ行き、冷蔵庫から炭酸飲料を一本持って部屋に戻ろうとした。すると、白ワインを傾けながらオイゲンが尋ねる。
「なあ、ハーロルト。こっちの大学の編入試験は、いつ受けるつもりだ」
帰って来たハーロルトだったが、まだ編入試験を受けることを決め倦ねていた。ドアの取っ手に手を掛けていたハーロルトは、一瞬だけ顔を顰めた。
「帰って来て、まだ半月だよ。もう少し待ってくれてもいいじゃん」
「そうよ、オイゲン。ハーロルトは記憶喪失だったんだから、まずは元々住んでた環境で感覚を取り戻した方が……」
妻のエミーリエは焦らせないよう助言するが、オイゲンは「それはわかっている」と前提してからハーロルトに言う。
「だが。帰って来たということは、こっちの大学に行くんだよな。お前はそのつもりでいると、考えていいんだな?」
自分の意思に従わせたい思惑を窺わせながら、オイゲンは念を押すように尋ねた。
ハーロルトは一瞬口を閉じるが、振り返って答えを返す。
「心配しないでよ、父さん。僕はちゃんと考えてるから」
自室に戻ったハーロルトは机には座らず、ドサッとソファーに横になった。
「わかってるよ。父さん」
(僕は、ここにいた方がいい。危険もないし、あそこにいても僕にできることはない……。でも……)
ふいに、心に靄が現れた。
ハーロルトは起き上がると、机の引き出しから、紺色のハードカバーで厚みのある小さめのノートを出した。
それは、ユダの日記だった。偶然荷物に入ってしまったのではなく、記憶喪失のあいだの自分のことが書いてあり、一応自分の所有物でもあるので持って来たのだ。
(なんで、悪いことをしてるような気になってるんだ。僕がいたところで、足手まといなのに。それに……)
パラパラと捲り、ペトロのことが書いてあるページになると、手を止めて何となく読んでしまう。
(ペトロくんのことを思い出すと、モヤモヤする。僕の知らない何かが、胸の中で動きたがってる)




