6話 接触①─ヨハネとキィナ─
秋陽でまだ空が白み始めたばかりの、早朝。小鳥たちも起きたばかりの街角で、ヨハネは一人ジョギングへ行くために準備運動をする。
「寒くなってきたな」
さすがにまだ白い息は見えないが、先月より空気は冷たくなった。
防寒対策にパーカーのジッパーを上まできっちり閉め、ストレッチを終えてヨハネは走り出した。
また隣から聞こえなくなってしまった息づかいの寂しさを、少しだけ感じながら、いつものコースを走る。途中、ベーカリーの焼き立てパンの香りを運んで来る風が、頬を撫でる。
公園に入ってしばらく遊歩道を走っているころには、日の出も近くなっていた。
線路を跨いだ階段を降り、開けた広場を通り掛かると、芝生に座って困っていそうな人を見掛けた。足首のあたりを気にしているようなので、ヨハネは気になって立ち止まり、声をかけた。
「あの。どうかされましたか?」
その人は細身で、長めのブラウンの髪を後ろで縛っていたので女性かと思ったが、顔を上げると男性だった。瞳の色は、ヨハネと同じ青い色だ。
「靴擦れをしてしまって……」
彼は柔らかな声質で、困っていることを伝えた。靴を脱いでいた左足首の後ろ側は血が滲んで、靴下の一部が楕円形に赤く染まっている。
「僕、絆創膏持ってますよ」
用意周到なヨハネは、走るのに邪魔にならない小さめのウエストバッグから絆創膏を出し、裸足になってもらって患部に貼ってあげた。
「ありがとうございます。絆創膏なんて、持ってらっしゃるんですね」
「僕も最初はよくやったので、念のためにいつも持ってるんです。スニーカー、新しいやつですか?」
「はい。買い替えて今日初めて履いたんですが、靴擦れのことなんてうっかり忘れてました」
「わかります。靴擦れって、うっかりやりがちですよね」
彼は靴を履き直し立とうとしたので、ヨハネは念のために手を取って補助した。腕も足も細く、成人男性の平均より下回った身体付きだが、長距離を走るには適した筋肉は付いていそうだった。
ヨハネは、その場で駆け足をしてみるよう勧めた。
「大丈夫そうですか?」
「はい。痛みも、そんなに気になりません」
「ならよかった」
早朝ジョギングも気持ちいいが、朝イチの人助けも清々しい気分だ。
すると助けた彼が、ヨハネの顔をジッと見て言ってくる。
「……あの。何度か、お会いしたことありませんか?」
「え?」
そう言われたヨハネも、彼の顔を見返した。影が現れ始めたくらいに明るくなってきて、見やすくなった顔を見ながら記憶の中から探してみるが、覚えがない。
ヨハネの表情を見て、彼は少しだけ眉尻を下げる。
「覚えてるの、ボクだけですかね。会ったって言っても、少しだけ顔を合わせたくらいだし。話したこともないし、当たり前か」
「ちなみに、どこで……」
「花屋です。メガネ屋とか、コーヒーチェーン店のすぐ側の」
「確かに。その花屋は、時々行きます。でも、全然わからなかった。店員さんとなら話すんですけど、他のお客さんと話すことってなかったから……。すみません」
「いいえ。ボクの方こそ、突然変なこと言ってすみません。何度か顔を合わせてるから、もしかしたら覚えてるかなって思ってしまって」
お互いに申し訳なくなった二人は、何度も「こちらそこすみません」「いえいえ、こちらこそ」と交互に謝った。
そのやり取りがおかしくなって、二人は同時にフッと笑みを溢した。彼は声質と同じで、柔らかい笑みだった。
「そうだ。助けてもらったので、何かお礼をさせてください」
「お礼なんていいですよ。ジョギング仲間を、放っておけなかっただけですから」
「それじゃあ……。これもご縁なので、興味があったら」
彼は、腰に着けていたウエストバッグから名刺を出して渡した。
「ヨガスタジオ?」
「ボクの名前は、キィナです。ヨガスタジオで、インストラクターをしています」
「ヨガって、女性がやってるイメージですけど……」
「男性の方も、たまにいますよ。というか、ボクも男ですし。小さいスタジオを借りて、マンツーマンでやっているので、女性に囲まれて視線を気にしたり、肩身が狭い思いをすることもないですよ」
「マンツーマンなんですか?」
「珍しいですよね。ボク、一度に多くの人とコミュニケーションを取るのが苦手なので」
キィナは肩を竦め、また眉尻を下げた。
ジョギングが日課のヨハネは、身体を動かすことは嫌いではないので、ヨガにちょっと興味引かれる。
「いつも大変で、お疲れじゃないですか?」
「え?」
「使徒さん、ですよね。ジョギングもいいですけど、たまには違う汗をかいてリフレッシュするのも、オススメですよ。今なら、初回は半額で体験できますよ」
日々の戦いで酷使するヨハネの身体を気遣うキィナは、ふわりと綿毛のような微笑みで誘った。
ヨハネは、ちょっと返事に迷った。女性の中に男一人というアウェイ感を感じないのも、少し魅力的だった。
「よかったら、考えておいてください。気が向いたら、名刺のコードからメッセージアプリの友達登録をして、そちらから予約してください」
「わかりました……。あっ。今は、名刺持ってないんですけど。僕は、ヨハネと言います」
「ヨハネさん。また会えたらいいですね」
キィナはまた、柔らかく微笑んだ。ヨハネは軽く会釈をして、ジョギングを再開した。
ヨハネが去ると、キィナは腰に両手を当てて一息ついた。
「アミーさん。ちゃんとできましたか?」
呼び掛けると、朝日で照らされるキィナの影の中に、青リンゴの色をした二つの鋭い目が浮き出てきた。
「指示通りやっておいたよ、お嬢」
「ありがとうございます。ひとまず、初動は完璧ですね」
相棒に礼を言ったキィナは、光を遮るように額に手を置き、自分を照らす朝日を見上げた。
「朝日って、こんなに眩しいものだったでしょうか」




