58話 張りぼてと風船
月は代わり、十月となった。九月と比べると暑さも和らぎ、残暑を忘れるくらい過ごしやしい気候となった。
ペトロはヨハネに付き添われて、専属モデルとなった男性ファッション雑誌『ERZÄHLUNG』の二度目の撮影に挑んでいた。尖塔が特徴的な赤レンガの教会や、歴史美術館前でも撮影したあと、シャルロッテンブルク宮殿前のシュロス通りにやって来た。
ファッションが変わるように、通りに並ぶ街路樹も、徐々に黄色やオレンジ色に装いを変化させ始めている。
撮っているのは来年の二月号に載せるもので、ペトロは次の衣装に着替えていた。アンバー色のニットに、ブラックのワイドパンツを合わせ、スニーカーを履いている。これにオリーブグリーンのダウンジャケットと、バーガンディー色のマフラーも身に着けるが、流石に暑いので、撮影が始まるまでスタイリストが持ってくれている。
今は、撮影準備が整えられるまで待機していた。ヨハネが近くのカフェで買って来てくれたホットコーヒーを飲みながら、二人は並んでベンチに座り、まったりと雑談をしていた。
「いいって言ったのに。なんで付いて来たんだよ」
「大丈夫って言うけど、心配だから」
「過保護だな」
「善意と言ってくれ」
「同情じゃなくて?」
「……それもある、かも」
「ヨハネに同情されるって……。オレ、終わってるじゃん」
「でも。見てると、放っておけなくなるんだよ」
心配しているというただそれだけの意味だが、聞いたペトロはちょっと引く。
「お前、そんなにオレのこと見てるの? それ、恋が始まるフラグじゃないか?」
「いつの間にか目で追ってて、もしかしてこれって恋!? ってやつだよな」
「悪いけど、オレがヨハネにそういう感情抱く可能性0%だから」
「安心しろ。僕も0%だから」
「浮気になっちゃうもんな」
「浮気?」
「ヨハネが誰かに恋をしたって言ったら、アンデレたぶんショック受けるぞ」
「バンデだけど、そういう関係じゃないし。告白されてもいないし、される雰囲気も0%だから。というか、気が合わない気がする」
「逆に合わない方が、うまくいくかもよ?」
すると今度は、同室になってから散々迷惑を掛けられ続けているヨハネが引いた。
「親友のアンデレと僕を、くっ付けたいのか?」
「そうじゃないけど。アンデレが、結構ヨハネのこと気に入ってるみたいだし。親友としては、仲良くやってほしいんだよ」
「一応、仲良くやろうとしてるけど。今のアンデレの頭の中は、親友への心配が半分を占めてるよ」
「半分は盛ってるだろ」
「そうだな。盛ったかも。僕とワンセットで半分に訂正しておく」
「ワンセットっていうのも、なんかやだな……」
まとめて心配されるのも、“ついで感”が出てペトロはちょっと癪な気がする。
「ペトロは今バンデがいないんだから、アンデレを頼っていいんだぞ。僕は全然構わないから」
「うん。でも、大丈夫」
ペトロはテンプレ化したセリフを言い、ミルクだけ入ったコーヒーを飲んだ。
ヨハネたちは時々気に掛けるが、ペトロはずっと「大丈夫」だと言い続けている。だがそれは、「大丈夫でいたい」と気を張っているんだと気付いている。
だから、そんな張りぼてをいつまで保っていられるだろうと、目が離せなかった。しかしペトロは、仲間からのその優しさを張りぼての前に置いたままだった。
「……あのさ。この前あいつの父親が来た時、息子は多重人格者じゃないって言ってたよな」
「ハーロルトのことか。本人の人格のみって言ってたな」
「ていうとこはさ。ユダは、あいつが記憶喪失になったから偶然生まれた人格、ってことなんだよな」
「たぶん、そうだな。テロに巻き込まれたショックから自分を守るために生まれた、一時的な人格だったのかもしれない」
「でも。あいつは記憶を取り戻した。ユダは、役割を終えたってことなのかな。もう必要なくなったのかな」
ヨハネは、ペトロの横顔をチラリと見た。泣きそうになってはいないが、味のしないガムを噛んでいるように、無気力に現実をゆっくり噛み締めているように見える。
「ヨハネはもう、気持ちの整理はできたのか?」
「ある程度は、できたかな」
ヨハネは、現在の自分の気持ちを確かめるように、問わず語りを始めた。
「あの時ユダが、自分のことをハーロルトと名乗った時は、ショックだった。人格交代を疑って、喪失感も感じた。僕を救ってくれたユダは、いなくなってしまったんだって……。実を言うと。僕はユダのことを、外見で好きになってたかもしれないんだ」
「かもしれない?」
「途中から、わからなくなったんだ。僕は本当にユダを好きだったのか、って……。その答えは、トラウマを体験させられてもまだ出そうになかった。そう思ってたんだけど……」
「人格交代で、何か思ったのか?」
ヨハネが見つけた答えを聞きたくて、ペトロは尋ねた。
「外見も声も同じハーロルトを見ても、ユダと同じように意識しないんだ。二人きりになっても平気だし、普通に話せるし、敬語を使おうとも思わない。ふとした時にドキリとすることはあるけど、でも、ユダと同じように見れないんだ」
ヨハネが整理できた気持ちは、ペトロとは違った。
ペトロは気持ちを整理して忘れようとしているが、まだ心のどこかでユダの陰をハーロルトに探している。けれどヨハネは、その陰を見ながらも、別人としてハーロルトを見ていた。
「人格交代が起こる前までは、ユダのことが好きだった。でも今は、その気持ちが宙ぶらりんになってる感じがする」
一度トラウマと向き合い、自身の心とも見つめ合って、不安定なかたちだった気持ちはシャボン玉から風船となった。
しかし今は、その風船をどうしたらいいのかわからなくなっていた。このまま紐を掴んでいていいのか。それとも、もう手放してしまえばいいのか。
「……あ。今、普通にユダのこと好きって言ったけど、無視してくれ。僕は忘れるつもりだから」
ポロッと口にしてしまったヨハネは、慌てて訂正した。
でもペトロは、そんなことは気にしなかった。思いを向ける先を見失っているのが同じだったから、少しホッとした。まだ置いて行かれていなかったんだと。
「あら! 二人で恋バナ? あたしも混ぜてよ〜」
二人がシリアストークをしていたところへ来たのは、筋肉モリモリのトランスジェンダー、ヘアメイクのルッツだ。
今日は、黒のリブニットワンピースに、緑色のトレンチコート、黄色いハイヒールのコーディネートだ。首元と耳には、ゴールドにスワロフスキーをあしらったゴージャスなアクセサリーを着けている。
「機材トラブル、大丈夫ですか?」
「会社に別のカメラ取りに行ってるけど、もうすぐ戻って来るんじゃないかしら。ていうか。今日はユダくんが来てなくて残念〜」
「ちょっと都合が悪くて。というか。社長なんで、事務所にいてほしいんですけどね」
「また会えると思って、勝負下着穿いて来たのにぃ〜」
ルッツはルージュを尖らせて、腰をクネクネさせ悔しがる。
「うちの社長に、何する気だったんですか」
「冗談ヨ。あたしは、いつでも勝負を挑んでるの。オンナの良さは内面からでしょ? その内面を纏う下着にも気を遣わなくちゃ。だから、何もなくても毎日下着には気合を入れてるの」
「毎日が勝負ですか……」
その気持ちが自分には足りなかったんだろうかと、ヨハネは心の中でルッツの心掛けを少しだけリスペクトする。
「ペトロちゃんも、下着には毎日気を遣いなさい。外見に惹かれて、老若男女、子羊猛獣誰でも寄って来るけど、一箇所でも気の緩みがあると付け入れられるわヨ。それは、自分を甘やかすのと同じ。ただでさえ、ぽっと出で使徒の片手間にバイト感覚でやってることが許せないやつらもいるんだから」
「オレ、片手間にバイト感覚でやってるつもりは……」
「わかってる」ルッツは人差し指で、ペトロの鼻の頭をトントンと突いた。
「だけど、活躍を妬んでるやつに隙きを見せちゃダメヨ。気合は入れておいて損はないから、勝負下着はオススメ。特に! 今月から注目度さらに上がるんだから、気を引き締めてネ!」
ペトロの正式な専属モデルデビューは一月号からだが、その前に、間もなく発売される十二月号に見開きで載ることになった。その記事で、専属モデルデビューが発表されることになっている。
「きっとユダくんも大喜びでしょうね! 発表された夜は、みんなでお祝いパーティーかしら? それとも、二人きりで……」
何かを妄想したルッツは「いや〜ん」とまた腰をクネクネさせて、一人で盛り上がった。
程なくして、撮影の準備が整ったと声が掛かった。ルッツは風で乱れたペトロの前髪をコームで整え、「完璧」とポンッと両肩を叩いた。
「ありがとう、ルッツさん。勝負下着はいったん保留にするけど、“毎日が勝負”は覚えとく」
呼ばれたペトロは、カメラの前に向かった。スタイリストからダウンジャケットを着せてもらい、マフラーを受け取り、準備が整うと、シャルロッテンブルク宮殿を背景に撮影が再開した。
「ヨハネちゃん。ペトロちゃん、今日はどうしたの?」
(僕も“ちゃん”付け?)
「どうしたの、とは」
今日が初対面で、早速“ちゃん”付けで呼ばれると思っていなかったが、面倒そうなのでヨハネは敢えてスルーした。
「なんか、元気がないみたい。落ち込んでるっていうか、恋する乙女のキラキラがないっていうか……。三角関係、拗れてるの?」
「三角関係って……。え?」
「ペトロちゃんとユダくんがラブラブなのは知ってたけど、ヨハネちゃんもユダくんラブなのは新情報だわ」
「えっ? は!?」
初対面のはずなのに自分の気持ちまで知られていて、ヨハネは困惑した。ルッツは、さっきの二人の話を木の陰から耳をそばだてて聞いていたのだ。
「盗み聞きは、趣味悪くないですか!?」
「恋バナ大好きだから、センサーが反応しちゃうのヨ♡ で? ヨハネちゃんも告白して、ドロドロになりそうな感じなの?」
「なりません。ドロドロしそうだったら、今日一緒に来てないです」
「じゃあ、どんな三角関係なの?」
「どんなって……。これ以上は、正式な取材の申し出をしてください」
ゴージャスなアクセサリーばりに瞳を輝かせて興味津々なので、根掘り葉掘り聞かれることから逃げるために、ヨハネは事務的に処理した。




