49話 つつがなく過ぎる日々
「申し訳ございません。今後ご縁がありましたら、その際にはよろしくお願い致します。それでは、失礼致します」
事務所の社長のデスクに座り電話を取っていたハーロルトは、相手とのやり取りを丁寧に終え、受話器を置いた。
「ごめんな、ハーロルト。断りの電話に対応してもらって。社長の声なら、先方も引いてくれると思って」
「全然大丈夫。仕事の電話だけじゃなくて、銀行の融資の話も来るんだね」
仕事オファーもそうだが、粘り強い相手との交渉事は、これまで全てユダに任せていた。
なのでヨハネは、タイミングよく事務所にいたハーロルトにバトンタッチし、銀行の融資担当との電話を交代してもらったのだ。ユダと勘違いしてしまいそうなくらい対応が思ったよりしっかりできていたので、感嘆してしまった。
「それにしても。電話対応、慣れてるな。どこかでアルバイトしてたのか?」
「うん。休暇で実家に帰ると、家業の手伝いをしてるから」
「実家と言えば……。引き留めてごめん。本当は帰りたいよな」
一方的に、しかも若干強引に引き留め続けていることを申し訳なさげに謝ると、ハーロルトも眉尻を下げる。
「うん。本当はね。でも、段々と居心地がよくなってきちゃって。まだ、ここにいてもいいかなってちょっと思ってる。ここからでも大学に行けるし」
「そっ、か……」
そう聞いたヨハネは、腑に落ちないような顔をする。
ハーロルトが復学するにあたり、一つ、不可解な点があった。学生証の名前が、ちゃんとハーロルトの名前になっていたことだ。
ハーロルトが大学へ行くと聞いたペトロが、学生証の名前は『ユダ』になっているはずだと、記載されている名前を確認した。ところが、机の抽斗から見つけた学生証の名前が、ハーロルトの名前に変わっていることが判明した。
ヨハネも以前、ユダに学生証を見せてもらったことがあるが、その時は確かに『ユダ・フランツ・ノイベルト』となっていた。
学生証は『ユダ』と『ハーロルト』二人のものが最初から存在していた、というのは考え難い。ならば、誰かにすり替えられたのだろうか。しかし、仲間の中にそんなことをする者はいないし、やる理由も思い当たらない。
「やはり、学校に行くんですか?」
そんな不可思議な出来事があったことは知らないヨセフは、キーボードをブラインドタッチしながら、訊いた。毎度ながら無表情で、話題に興味があるのか、ただ合わせているのかどうかがわからない。
「ハーロルトにも、将来やりたいことがあるみたいだし。勉強は、捗ってるのか?」
「おかげさまで、集中して勉強できてる。ペトロくんも、集中できるように気を遣ってくれるし」
「ペトロとは、上手くやれてるか?」
「うん。大丈夫だよ」
関係は良好だと、ハーロルトは温柔な顔を和らげる。
ペトロは、ハーロルトと同室を続けていた。日常会話もするようにもなり、一見すると普通に接しているが、ヨハネたちは、ハーロルトと接する時のペトロは壁を作っているように感じている。
「彼、口数が少ないよね。最初は嫌われてるのかと思ったけど、話してみるとそんな感じじゃないし。たまにドジするところが和むし。淹れてくれるコーヒーもおいしいし」
だがハーロルトは、ペトロの心の壁に全く気付いていない。
「そっか」
「そういえば。コーヒーの味が、実家で飲んでたのと似てるんだよね」
「そうなのか」
「食後に淹れてくれるコーヒーってたぶん、ハイローストの細挽きだよね。でも部屋で飲むやつは、フルシティーローストの中挽き。淹れ方を見せてもらったら、父さんに教えてもらった淹れ方と同じだったんだ」
教えられてもいないのに、コーヒーの味の違いや、豆の挽き具合までわかるとは。ハーロルトは舌が肥えているようだ。
「よくわかったな。でも、似てる味だなんて偶然だな」
「もしかしたら、記憶がないあいだの僕が、五感で覚えてたのかもしれないな」
他愛もない話をしていたとき、ハーロルトのスマホが鳴った。立ち上がったハーロルトは、休憩スペースの方へ行って電話に出た。
「もしもし。どうしたの、父さん」
電話をしてきたのは、父親のようだ。近況を報告して、相槌を打ちながら数分話すと、通話を終えてデスクに戻って来た。
「父親から?」
「うん。仕事の休みが取れたから、僕に会いに来るって」
「会いに?」
「うん。ちょうどこっちに用事もあるから、来るって言ってた。お世話になってるみんなに、挨拶がしたいって。だから、住所教えてもいい?」
「あ……。うん」
ハーロルトの父親が、訪ねて来る。挨拶をしたいという理由だが、ヨハネの心が少しざわつく。




