48話 続いていく時間
「そうだよな。お前の葛藤は、俺も少しはわかる。見た目も声も同じだし、顔合わせると名前を間違えそうになるし……。なあ、ペトロ。一つ訊いていいか」
「なに?」
「実家へ帰ろうとしたあいつを引き留めてるけど。お前にとっては迷惑か?」
もしかしたらこれは自分たちの自己満足で、ペトロにとっては余計なお世話じゃないかと気になっていたので、訊いた。
目を伏せるペトロは、少し考えた。
「……わからない。だけど、迷惑とは思ってないよ」
「そっか。もしかしたらお前を悩ませるだけで、余計なお世話じゃないかと思ってた」
「悩まされてはいるけど。でも。あいつがいることで、少しは整理もできてるんだ。ここにいるのは、ユダじゃないんだって」
ハーロルトの存在は、認め難い。けれど残酷にも、彼がいることで現実を噛み締めている。味のしないガムのように。
「姿や声が同じでも、性格は違うし、しゃべり方も違う。何より、オレたちと見てるものが違う」
「そうだな……。でも。お前としては、まだハーロルトにいてほしいか?」
「いてほしいって、思ってるわけじゃない……。みんなは引き留めてくれてるけど、あいつは、仲間でもなくて、友達でもない。赤の他人がここにいるのは、なんか違う……。でも。だからって、今すぐ出て行かれるのは、困る」
「気持ちの整理が付かないままは、ってことだよな」
「せめて。もう少し、現実を受け止められるまでは……」
葛藤し続けているペトロも、その選択が合っているのか間違っているのかわかっていない。しかし、あの日までの日々はあの日までで、次の日からはもう別の日々が始まってしまっていて、自分は今、その時間の中にいる。朝と夜を繰り返しても、あの日から地続きの時間の中にいるのだと実感させられている。
けれど、別の不安を抱く時がある。自分だけが、並行世界に連れて来られたのではないかと。
「それでお前の気持ちが整理できるなら、いいけどさ。こんな急展開、たった数日で受け入れられるわけねぇんだから、お前のペースでいいんだよ」
「ヤコブ……」
「お前だけ置いてくなんてねぇから。安心しろ」
温和に言葉を掛けてくれるヤコブの思い遣りが、嬉しかった。彼らは普通にハーロルトと話しているのに、自分だけ取り残されているような気がして、孤立してしまうのではと思っていた。
でも仲間は、一人で寒い窓際にいるペトロに、温かな手を添えることを忘れていない。毎日置いて行ってくれる差し入れが、そう教えてくれている。
ペトロは、一人ぼっちになりかけていた心が寄り掛かれる場所があって、少しだけ安心する。
「ヤコブがいつもより優しくて、気持ち悪い」
「せっかく人が優しくしてやってんのに、なんだその言い方は。奢るって言ったの取り消すぞ」
ヤコブはムッとした表情を作り、フォークでペトロのアプフェルシュトゥルーデルを一口奪った。
「冗談言える余裕が出てきたなら、大丈夫だ。その調子で、一度ハーロルトと話してみろよ。まだ、ちゃんと目を見て話してないだろ」
一緒に食事だけはしているが、顔も合わせていないせいで、まともにハーロルトと会話をしたことがまだ一度もなかった。
「お前にとっては難しいことだろうから、無理にとは言わないけど。でも、あいつと話せば、もう少し気持ちの整理ができるかもしれないぞ。キツかったら、俺らを頼ればいい。俺らがお前を支えてやるからさ」
「うん。ありがと」
辛いときに気に掛けてくれる仲間の存在がこんなにありがたいんだと、優しさが心に沁みる。例え、その優しさで心が満たされなくても、ペトロがここにいる理由にはなっていた。
アプフェルシュトゥルーデルに添えられたアイスとバニラソースが、日差しの熱で少しだけ溶け合っていた。
ペトロは夕方ころにアルバイトを切り上げ、帰って来た。事務所に顔を出すと、ちょうどハーロルトが外出したとヨハネから聞いたので、久し振りに自分の部屋に戻った。
サッとシャワーを浴びて着替えると、いつもの流れでソファーに寝転んだ。
「なんか落ち着く……」
(自分の部屋だからかな。リビングのソファーと、寝心地も違う。寝不足が続いてたから、寝れそう……)
目蓋が少しずつ閉じていき、ペトロはそのままうたた寝をしてしまった。
眠ったのは、三十分ほどだった。誰かに呼ばれて、目を覚ました。
「こんなところで寝たら、風邪引くよ」
「ん……」
呼ばれて重い目蓋を薄っすら開くと、覗き込んでいる顔があった。メガネを掛けた、チョコレート色の髪の……。
(ユダ……?)
なんだ、戻って来たじゃん。と、心の底から安堵と喜びが湧き上がろうとしたが、現実はちゃんとはっきりとペトロの瞳に映した。
「起きた?」
「……!」
前髪の分け目が違い、ユダではないと気付いたペトロは慌てて起き上がり、部屋を出て行こうとした。
「待って!」
しかしハーロルトが呼び止め、ドアの前で立ち止まった。そのまま飛び出して行ってもよかったが、ヤコブと話したせいか、別の理由か、ドアノブを捻るのをためらった。
ハーロルトは、戸惑いを浮かばせてペトロに尋ねる。
「ペトロくん。ここは、きみの部屋なんだよね。どうして戻って来ないの? 僕は、きみに何かしたのかな」
(違う……)
背後から聞こえる声にペトロは眉をひそめ、振り返らずに平静を装って答える。
「別に。お前は何もしてないよ」
「それならいいんだけど。じゃあどうして、ずっとリビングで寝てるの。僕に気を遣ってる?」
「そ……そうそう。初対面のやつと同室とか急に言われても、緊張させるだけだし」
(違う。しゃべり方も、声のトーンも少し違う)
聞けば聞くほどその違いがわかり、現実は残酷を押し付けてくる。これが運命だと、言い聞かせるように。
「じゃあ。僕と同室が嫌ってわけじゃないんだ」
「そんなわけないじゃん。今までずっと……」
(違うんだ。こいつは、ユダじゃない)
ペトロは平静を装ったまま振り返り、ハーロルトの顔を見た。
「ずっと、同室で過ごしてきたんだから」
(オレの目の前にいるのは、オレを愛してくれた人とは、違う人……)
これは、誰にも変えることのできない運命だ。尊い願いをどれだけ捧げても、変えられない。ペトロは、この運命を受け入れる他ない。『ハーロルト』と『ユダ』は、違うということを。
ペトロはこの場から逃げるのをやめ、胸奥を隠して事も無げに話し始めた。
「ごめんな。初めての場所で、一人で過ごさせて」
「ううん。大丈夫。ここの共同生活にも、少し慣れてきたし」
「そっか。それなら、そろそろこの部屋に戻って来るよ」
「それは助かるよ。いろいろと勝手に使っていいものか、困ってたから」
ペトロがハーロルト用の仮面を被っていることに、彼は微塵も気付いている様子はない。
「そんなの、気にしなくていいのに。まだ、ここにいるんだろ?」
「うん。一応」
「じゃあ。しばらくのあいだ、同室ってことでよろしく」
「よろしく」
ペトロは、ハーロルトと便宜的な握手を交わした。彼を認めるための最初の一歩を踏み出すことはできたが、心はまだ、遠く遠く離れている。
(オレは、幸せなんて求めちゃいけなかったんだ)
水溜りになっていた氷が、ペトロの願望をまた覆い始めた。




