47話 とどまる心
ヤコブは職場のレストランへ出勤し、昼の混雑する時間帯をハードにこなした。ピークが終わると休憩時間をもらい、テラス席の端の方でカリーヴルストにありついた。
(シモン、今日の放課後は友達と課題やって帰るって言ってたな)
帰りは別々で、夜まで顔を合わせられないのか……。と、ぼんやり寂しさを感じながら食べていると、電動キックボードで走るペトロが店の前を通り掛かった。
「おーい。ペトロ!」
呼び止められたペトロはヤコブに気付き、店の前で止まった。
「ヤコブ」
「どこ配達行くんだ」
「ちょっと、ひと休みしようとしてたとこ」
「なら、ここで休んでけよ。デザートくらいなら奢ってやる」
誘われたペトロは言葉に甘え、ヤコブと相席して一息入れることにした。
注文したのは、スライスしたリンゴとレーズンを小麦粉の薄い生地で巻いた焼菓子、アプフェルシュトゥルーデル。
スプーンを入れると、薄い生地がパリッと音を立てる。添えられた温かいバニラソースと、バニラアイス、ホイップクリームを付けて一緒に頬張ると、甘さとリンゴとレーズンとナッツの歯応えを感じ、アクセントのシナモンの香りが鼻腔から抜ける。
「お前、ちゃんと寝れてんのか?」
「一応寝てる」
「寝不足なんじゃねぇの。時々ぼーっとしてるし。さっき運転してる時も、どこ見てるかわかんなかったぞ」
「えっ。そうだった?」
「気を付けろよ。使徒が事故ったなんて、シャレにならねぇからな。やるなら単身事故にしろよ」
「わかってる。気を付けるよ」
ペトロは普通に注意として聞いたが。
「いや、そこは。事故自体ダメだろ! とかツッコめよ」
ヤコブはツッコミどころを作ったつもりだったが、気付けなかった。
「あ。ごめん。言い直す?」
「いいよ……。ツッコミにも鈍くなるとか、そろそろ自分のベッドで寝た方がいいんじゃね」
「……そうだな。ソファーの寝心地も悪いし」
「だったら、部屋戻れよ」
「……」
ヤコブは先にカリーヴルストを食べ終え、ナイフとフォークを皿に置いた。
「ずっと、リビングルームに住むつもりか? それなら、毎日の朝と夜の食事の準備、お前専任にするぞ」
「それはちょっと困るかも。まだ料理の勉強中だったし」
「あ……。ユダに教えてもらってたんだっけ」
「うん」
今はあまり触れてはいけないことだったと、ヤコブはちょっと気まずくなり反省した。
すると、ペトロのスプーンが止まり、鬱々とした心情を浮かべて白い皿を見つめる。
「部屋に戻らないといけないよな……。でも。なかなか、踏ん切り付かなくて……」
目を逸らしたままではいけないのは、わかっていた。しかし、まともに顔を合わせることもできないのに、同じ部屋で生活するのはまだ難しかった。
あれから五日。ヤコブたちの気持ちは、少しずつではあるが整理をし始めようとしている。けれど、ペトロにその兆候はないように思えたヤコブは、尋ねた。
「あのさ。ユダが戻って来ること、期待してるのか?」
「……戻って、来ないのかな」
ペトロは、恋しさと悲しみを滲ませた。憫然なその姿を見ていられず、ヤコブはカフェラテを飲んで同情を少しでも流そうとした。
「期待はしない方がいいぞ」
そう言われたペトロは、垂れた前髪の内側で微傷を受けた表情をする。しかしヤコブは、そういうつもりで言ったのではない。
「お前をいじめるつもりじゃないけど、あるかもないかもわからない可能性をちらつかせて余計な期待をさせようなんて、無責任に思ってない。そんなことしても、お前があとでさらに辛くなるだけだからな」
「……ヤコブらしいな」
ペトロは、スプーンを皿の上に置いた。アプフェルシュトゥルーデルは、おいしい。でも、いつもなら口いっぱいに広がる甘さが、物足りなく感じていた。
「期待したらダメだって、わかってる。しても、きっと無駄だって。だから毎日、一生懸命、気持ちの整理をしようとしてる。だけど。しようとすればするほど、寂しさが募っていくんだ」
今ここにいるのは、ユダではなくハーロルトだ。そう自分に言い聞かせる度に、ハーロルトではなくユダの顔が甦る。そしてその度に、春から重ねてきた思い出を想起してしまう。
「辛いのはオレだけじゃないのも、わかってる。オレだけが、悲劇に遭遇したわけじゃない。ヨハネだって、きっと辛いのに……」
ユダに好意を抱いていたヨハネのことも考えると、自分だけ弱音を吐いてはいけないと思い、口にしていなかった。心の中に抑え込んで、自分だけの痛みとして処理しようとした。
「あいつは、意外と大丈夫そうだぞ。バンデのアンデレがいるおかげもあるだろうけど。でもお前は、バンデを失っただけじゃなくて、一番大切なものを失くしたんだ。その辛さは、俺らには想像できない」
いつもは、言うべきことはズバッと言うヤコブだが、今のペトロには多少は言葉を選ぶべきだと弁えている。辛い現実を受け入れろと無理強いし、追い詰めてはいけない。自分に置き換えてみれば、その痛みもわかるつもりだ。
けれど。相棒がバンデでなくなる恐怖と、人格が消えたショックは違う。ペトロは、バンデを失う恐怖よりも怖い、絶望を味わっている。その背中をどんな言葉で支えられるか、ヤコブにはまだ見つかっていない。
「俺らは、微力だけどお前を支えることしかできない。本当は俺らも、ユダに戻って来てほしいって思うよ。でも、無理なんだ。お前が求めるものは、俺らがどんだけ頑張っても取り戻せない。だから、今目の前にある現実を少しずつ受け入れていくしかないんだ」
『ハーロルト』が本来の人格である以上、強引な人格交代はできない。どんな事情があろうとも、ハーロルトの人格を否定することは許されない。
目の前で憫然とする仲間を救う方法がないことが、こんなにも苦しいものだとは思わなかった。ペトロは、この何十倍もの苦しみを一人で抱えているんだと想像すると、ヤコブは無力さに悔しくなる。
「わかってるよ。そうするしかないって……現実を受け入れなきゃいけないって、理解してる。でも。あいつと向き合える自信がない」
どうしたらユダは戻って来るだろう、また怨嗟のマタイの棺に囚われれば戻って来るだろうか、なんてことも考えて、ハーロルトの存在を拒絶していた。自分はこんなにもユダに心を奪われていたんだと、毎時思い知らされる。
しかし。どれだけ望もうと、ヤコブの言う通りユダは取り戻すことはできない。だから、ハーロルトの存在を認めなければいけない。
けれど、彼の存在を認めるということは、幸せになりたいと願ってしまった罪を認めることだった。その罪を目の当たりにさせられるような気がするのも、ペトロは怖かった。




