44話 消失
リビングルームでは、ショックで落ち込むペトロにヨハネとアンデレが寄り添っていた。丸まった背中をさするアンデレは、精神治癒をずっと続けていた。
「アンデレ。そろそろ切りあげろ」
かれこれ十分以上、力を使い続けている。ヨハネはアンデレのスタミナを考えて、切り上げるよう言った。
「でも……」
「いいよ、アンデレ。ありがと」
愁然と俯いていたペトロは顔を上げて、憂うアンデレに大丈夫だと笑みを浮かべた。そのつもりだったが、口角が全く上がっていない。
「でも、まだ辛そうだぞ」
「大丈夫。さっきよりは、軽くなったから」
「それに。やり続けたら、今度はお前が倒れるだけだ」
先程の戦闘では、敵の術中に嵌まり身体が動かない状態で防御を続けていた。その負荷を引き摺ったまま、アンデレに無理をさせるわけにはいかない。親友を心の底から案じているのもわかるが、自身の身体も労れとヨハネは止めた。
ヨハネの気持ちを理解して、アンデレは惜しみながらペトロの背中から手を離した。
背中からほのかな温かさが消え、安心していた心が冷たい空気を纏った。
「……本当に、ユダだったときの記憶がないんだな」
ずっと背中を向けながら会話を聞いていたペトロは、喪失感を乗せて零した。その瞳は、見つけた輝きを見失い、途方に暮れている。
「……そうだな」
ヨハネはどう声を掛けていいのかわからず、ありきたりな相槌を打った。
「……でもさ! いつか思い出すかもしれないし! そんなに悲しむことないって!」
アンデレは、漂う暗い雰囲気を散らそうといつものように明るく励ますが、さすがの陽キャパワーでも変えることができず、あからさまに空回りしてしまった。
そこへ、ヤコブとシモンが戻って来た。沈鬱するペトロに向ける面持ちは、愁眉を禁じ得ない。
「オレ……どうしたらいいのかな……」
ユダは無事に記憶を戻した。しかし、今までのことを全て忘れてしまうとは、誰も考えていなかった。
突如として起きた現実を、そう簡単に受け入れられるはずもない。受け入れ難い気持ちは同じヨハネたちも、それは理解できる。
「ペトロ。無理に気持ちを切り替えようとしなくてもいい。僕たちも混乱してるし。少しずつ整理するしかない」
「そうっすね。おれたちのことがわからなくなるなんて、誰も想像できなかったんだし。無理しなくていいよ」
「それは、わかってる。だけど……」
ペトロは、右腕を掴んだ。寄る辺を見失い影を落とした蒼碧が、不安定に揺れる。
「……消えたんだ」
「消えた?」
「ユダの名前が……消えたんだ……」
「!?」
皺が付くくらいに袖をギュッと掴み、ペトロは顔を伏せた。それからまた、誰が声を掛けても沈黙した。
ヨハネたちはペトロをリビングルームに残し、廊下へ出た。
「ペトロのこと、心配だね」
「まさか、名前が消えるなんて……」
バンデの証である名前が消えた。その事実は、ヨハネたちにも衝撃を与えた。
ペトロが使徒ではなくなる、というわけではない。だが、バンデがいなくなったということは、心の支えを失い、精神的なダメージを分け合えず、全て自分で背負うことになる。仲間の支えで戦うことはできても、一人で苦しみを背負っていくことになってしまう。
それは、以前のペトロの生き方に戻るということだ。
その事実にも動揺する四人だが、ヤコブには一つ引っ掛かっていることがあった。
「ていうか、思ったんだけどよ……。ユダのやつは、普通の記憶喪失じゃなかったってことだよな」
「え? でも、自分の過去は何も覚えてなかったんだろ?」
「そうだったんだけどよ。記憶戻ったら、なんで名前変わるんだよ」
「あ……」
ヤコブの疑問に、シモンとアンデレはハッとする。
記憶喪失になったとしても、名前は変わらないはずだ。しかも、仲間のことや、これまでの日々すらも忘れているのは、おかしいのではないだろうか。
「俺たちのことだけじゃなくて、今までのことを何もかも忘れてるっておかしいだろ」
「確かにそうだよね。記憶が戻ったらそれまでのことを忘れちゃうなんて、そんなことあるの?」
「おれはないと思う! ていうか、ないって思いたい! 全部忘れられてるの、悲しいだろ!」
「そうだな。だけど俺、思ったんだよ」
「僕も。たぶん、ヤコブと同じことを考えてる」
ヤコブとヨハネは、似たような深刻な表情をする。
「え? え? なんすか? 二人は何思ったんだよ?」
アンデレは、二人の顔を交互に見た。シモンも、何かに気付いた様子の二人に注目する。
ヤコブは、自身の推考が間違いであることを心のどこかで祈りながら、口にする。
「人格が違うんだ」
「人格が、違う?」
「ハーロルトは否定してたけど。あいつとユダは、別の人格なんだ。そして多分。ハーロルトの方が、本来の人格だ」




