40話 裏表
「まだやっていたのか」
棺の中に消えたマタイの姿があった。一同は戦闘を止め、現れた気配すら感じられなかった驚きとともに視線をやった。その身体は無傷で、身に纏うボロい黒い軍服は汚れても布が裂かれてもいない。
「此奴は返す」
その側には、ユダが倒れていた。
「ユダ!」
「無事なのか!?」
「確かめて見れば良い」
「マタイッ!」
トマスと相対していたペトロはマタイに急接近し、ユダの代わりに一矢報いろうと〈誓志〉を振り下ろした。
上半身を斜に動かした程度で簡単に避けられるが、敵愾心を燃やすペトロは剣を連続して振るう。
「はあっ!」
その時、また刀身が青白い光を帯びた。
(……!?)
マタイは、上半身を仰け反らせて避ける。そのまま足元の影の中に消え、一瞬で離れた場所に移動した。その表情は、なぜか訝しげだ。
(何なんだ、此奴等は。俺は『蝶』を見付けた筈だ。だが、奴の記憶を弄っても、まるで痩せた麦を掴んだ気分だ。俺が確信を抱いた奴は、本当に本物の『蝶』か?)
「マタイがやっと戻って来たぁ!」
マタイのそんな内心の困惑も知らず、強い味方が戻って来たトマスはものすごく安堵する。既にシャックスは回収され、すっかりヘタレに戻っている。
「マタイ〜! おれ一人で心細かったよぉ〜!」
「シャックスも居ただろう」
「シャックスも頑張ってくれたよ。でも、おれがうっかりしてた所為で、一寸やられちゃったぁ〜」
「まだやれるか?」
「もうやだ、無理! 帰りたいよぉ〜!」
「そういうわけにいくか! ユダに何をした!」
敵愾心を燃やし続けるペトロは、剣を構えつつ問い質す。
「親切に記憶を弄ってやっただけだ。其の内に目を覚ます……。ああ。其奴が受けた苦しみの分を俺に仕返そうなど、愚かな考えは止めておけ。興味の無いお前達など、目障りと思えば一瞬で殺してしまうからな」
「……っ!」
氷の針山を心臓に突き刺されるような冷たい暗紅色の眼光に睨まれた五人は、竦み上がる。
「今回の俺の目的は一応果たしたし、部下も手負いなので此れで失礼する」
「ちょっと待て」
引き止めたヨハネがマタイに尋ねる。
「この前、『ホーローカウスト』が目的だと言ったな。死徒は、人間を皆殺しにするつもりか」
「皆殺しなど、そんな惨い事はしない。『ホーローカウスト』は、全ての人間が平等になる為の計画だ」
「全ての人間が、平等に……?」
「お前らの口から、『平等』なんて言葉を聞くとは思わなかったな」
「人間は平等が好きだろう……。否。其れが好ましいと思っていると言う、仮面を被っているだけか」
「だから、死徒が代わりに平等にしてあげるって言うの?」
「そんなのお前たちがやらなくたって、ちゃんと人間がやるし!」
アンデレの真面目な言葉に、マタイは嘲笑う。
「そうか? なら。俺達が動き出す迄に全ての人間が変わっていたら、『ホーローカウスト』を考え直してやろう」
その宣言は、もちろん嘲弄だ。そんなことは何世紀掛けても不可能だと、マタイは知っているからだ。
眦に軽侮を余韻で残し、マタイはトマスと共に影の中に消えた。
姿も気配も完全に消えるのを見届けたペトロたちは、張り詰めた緊張感を解いて倒れるユダに駆け寄った。
「ユダ! 大丈夫か!?」
ペトロは、倒れるユダの上半身を起こした。気を失っているようだが、見た目には外傷はないようだ。
「気絶してるだけみたいだな」
「でも、安心はできない」
ヨハネは、憂慮する面持ちで言った。
ペトロはユダの名前を呼び続けた。自分の声に応えてくれると信じて。
その思いが通じたのか、何度目かの呼び掛けに反応があった。
「ん……」
「ユダ!」
意識が戻り、ゆっくりと目蓋が開かれた。一同の心に、一気に安堵が広がる。
「よかった。気が付いた!」
「大丈夫ですか? どこか痛みは?」
「心配しましたよ、ユダさんー! おれたち大変だったんですよー!」
「大変だったのはユダの方だろ。でも、無事で何よりだな」
現れたブラウンの瞳は、周りを囲むヨハネたちに目を遣る。その表情は、どこかまだ不安を抱いていた。
仲間たちの顔を見ても何も言わないので、ペトロは心配して顔を覗いた。
「ユダ。大丈夫か? 棺から外に出られたんだよ」
「……え?」
「さっきまでのこと、覚えてないのか?」
自分が棺に囚われていたことを覚えていないのか、困惑の表情を浮かべられる。不安を浮かべるその目は、ペトロを見ても色を変えない。
「記憶を弄られたから、混乱してるのか?」
ペトロは、言い知れない恐れを予感する。ヨハネも、様子がおかしいことにまた憂慮を浮かべる。
ペトロは、湧き出る恐れを抑えながら質問する。
「ここが、どこかわかるか?」
尋ねられた彼は、無言で首を横に振る。
「死徒や、ゴエティアのことは?」
「死徒……? ゴエティア……?」
「じゃあ。オレたちのことは? それくらいわかるよな?」
ブラウンの瞳は、改めてペトロたち一人一人の顔を見る。
「誰……ですか?」
その表情から質の悪い演技ではないとわかる五人は、困惑を露にする。
「嘘だろ……」
「ボクたちのこと、わからないの?」
「では、あなたのことは……。自分のことは、わかりますよね?」
もうほぼ明らかな現実を拒絶しながらも、確かめるためにヨハネは尋ねた。
彼は、自分の名前をはっきりと答える。
「ハーロルトです」
「……え?」
「僕は。ハーロルト・クアラデムです」




