37話 棺の中。緑蕪に開く
マタイの棺に囚われたユダが目を開くと、トマスの時と同じで、何もない暗闇の空間だった。違うところと言えば、霧が立ち込めていないことだけだ。
「また、何もない空間……」
(やっぱり私には、トラウマがないということなのか……)
「何故、何も出て来ないんだ」
同じ空間にマタイも現れ、怪訝な顔付きで暗闇を見回した。
「俺がやれば違うと思ったんだが……」
「どうやら私には、再現できるトラウマがないみたいだ。これじゃあ、棺の意味がないんじゃない?」
精神を抉り、罪悪感の沼に落とすのが死徒のやり方。それができないのなら普通に戦うしかないのではと、ユダは解放への誘導を試みた。
「言う通り、意味が無いな……。では。こうしてみるか」
マタイがそう言うと、ユダが一回まばたきをした刹那に、暗闇は雲が浮かぶ青空の下の原っぱに変わった。
「!?」
(景色が変わった!?)
風が吹き、うねる波のように草がなびき、擦れ合ってサラサラと心地よい音がする。しかし、草の匂いもしなければ、風の温度も太陽の温度も感じない。何も装着せずにVR空間にいるような感じだ。
「暗闇だと味気無いからな。此れなら、多少長居をしても退屈しないだろう」
「これは……。私の記憶にあるものなのか?」
「見覚えは無いかも知れないが、遺伝子には記憶が有るかもな。但此れは、俺を作る一部の記憶を借りた物だが」
二人の後ろに木の椅子が現れた。かなり使い古されて所々傷み、座るのを少し躊躇したくなる見た目だ。
「立ち話も疲れるだろう」
マタイが座ると、その飄々とした態度に戸惑いと警戒をしながら、ユダも三拍間を空けて腰掛ける。座り心地は、案外安定していた。
対面で腰を据えると、奇妙な時間が始まった。
「では。作業に取り掛かろう……。何故、お前ではトラウマを再現出来ないんだ」
「なぜと言われても……」
「お前にも有る筈だ」
「それは決め付けじゃない? 中には深い傷を抱えず、幸せに人生を送っている人もいるだろうし」
「だが、お前が其の内の一人な訳が無い。其れは有り得ない。なのに何故、過去を呼び起こせない?」
「だから。そんなことを言われても困るんだ。私には、過去の記憶がないんだから」
「……記憶が無い?」
「記憶喪失ってことだよ」
死徒の誰も知らない事実を言った途端、マタイの眉間が力強く寄せられる。
「何を言っている?」
全身から放たれた威圧感を感じ、ユダは緊張感に怖気を付加するが、気概と毅然とした姿勢を保つ。
「言葉が通じなかったかい?」
「巫山戯た事を言う。此処はそんなに退屈か?」
「楽しくはないね」
マタイは背凭れに上半身を預けた。椅子がギシッと不安な音をさせても、座り慣れているように腕と足を組んだ。
(成る程。此奴は、自身の過去を知らないのか。だが。トマスより、俺の方が相互干渉力が強い筈。それに。記憶喪失を理由に、トラウマを引き摺り出せない筈はない。なのに何故……)
マタイは、暗紅色の双眸でユダを凝視しながら思考を続ける。
威圧感は少し収縮したが、内に棲まわせている怪物は得体が知れない。ユダは、その視線からなるべく視線を逸らさないように緊張感を維持する。
(記憶喪失なのは、理解してもらえたんだろうか……。死徒の戦法がこの棺の中での精神攻撃なら、私はこの場所にいても無意味。通常の戦闘に切り替えることもできるのに、それもしない……。マタイは、いったい何を考えている?)
無言の時間が流れる。温度のない風が吹き、雲が動き、草が揺れる。時間は流れているようだが、しかし、不思議と太陽の位置は変わらない。
(トラウマが引き出せない……。記憶喪失……。記憶の遮断……)
マタイはひたすら黙考する。彼が全く口を開かないので、この待ち時間の意味が無意味だと感じたユダは、付き合う義理もないので沈黙を破った。
「……あのさ。用がないなら、解放してくれないかな。仲間が心配してるんだ」
相見えたこの場でまだ一戦も交えていないのに解放を求めるユダの言葉に、マタイはハッとする。
(そうだ。此の前接触した時、此奴は俺に何も反応しなかった。最初に顔を合わせた時も……)
するとマタイは立ち上がり、原っぱの草を踏みながら無言でズカズカとユダに近寄る。いよいよ戦う気になったのかとユダも立ち上がり、完全に戦闘モードに切り替えようとした。
ところがマタイは、攻撃をするでもなく目の前まで来て、ユダの胸倉を掴んだ。そして、その首と首元に目をやった。
「……」
自分が抱いていた違和感の原因に気付いたマタイは、眉頭を寄せてユダの顔を凝視する。
「……お前は何者だ」
「自己紹介、した方がよかった? ユダ・フランツ・ノイベルトだよ」
「ノイベルト……だと?」
名前を聞いたマタイは、たちまち険しい顔付きになり、胸倉を掴んだままユダを投げ飛ばした。
「くっ!」
ユダは原っぱに身体を打ち付けられるが、草がクッションとなり激しい痛みはなかった。
「お前は、俺が探している『蝶』では無い!」
(蝶……?)
そういえば、この前もそんなことを言っていたような気がすると記憶を遡る。
マタイは障害となる椅子を蹴り、倒れたユダに近付いて行く。
「だが。お前が『蝶』なのは間違いない。恐らくお前は、偽者の『蝶』だ。其の記憶喪失の所為で」
「その蝶っていったい……。ぐっ!」
マタイは、ユダの腹を思い切り踏み付けた。
「偽者に用は無い。俺が求めているのは、本物の『蝶』だ」
そして、ユダの頭を掴むように額に手を当てる。
「だから。俺が記憶を呼び覚まさせてやろう。本当のお前を思い出せるように」
「お前は、私の過去を何か知っているのか!?」
「偽者など興味は無いし、知らん。俺が知っているのは、殺したい程憎い感情だ」
さっきまでユダを見ていたその目は、既に他の者を見ていた。
マタイは、ユダの記憶の扉を開こうと弄り始める。
(何だこれ。何かが入り込んで来るような。すごく、不快な……)
「……!」
すると。ユダの脳に、記録映像のようなものが流れ始めた。
それは、今日の記憶から始まった。映画のあとに芝生の上でペトロと話していたシーンから、バックで走っているジェットコースターのように記憶が次々と遡る。使徒としての最初の活動の時や、ヤコブやシモン、ヨハネと出会った時。そして、病院に入院していた時と。
ユダが最初に記憶していた風景を過ぎると、見たことのない場所が見えた。どこかの建物の中の広い空間で、店が並び、多くの人が行き来していて、中央にベンチが設置されいる。ユダはスマホで誰かと話しているようだが、突然、視界は暗転になった。
(これは……)
暗転から抜けると、同い年から幼少までの顔も知らない人々の姿と、男性と女性が自分を見下ろしていた。
と思えば。再び急に暗転になり、また違う映像が再生された。今度は身体の激痛に、息も絶え絶えになっていて、ふらついていたと思ったら倒れ、今度はすぐに暗転した。
以降も、誰かの目線の映像が次々と流れるが、どれも激痛と呼吸困難で倒れた。
五人、六人と、同じ映像が繰り返される。何度も。何度も。
それを見ていて気付いた。最後の暗転は、事切れているという意味だった。傍から見ている映像ではないのに、なぜかユダはそうだと理解できた。
その映像は、着実に深層介入する。精神的負荷を掛けられるユダにも、少しずつ異変が起き始める。
「や……やめろ……」
事切れる映像が何十人と続きながら、時代が遡っていく。血腥い映像とマタイとの相互干渉力も相俟って、岩を括りつけられよたうに心が重くなる。
自分ではないのに、自分が何度も死んでいるような錯覚に陥りそうになる。呼吸も浅く早くなり、追い詰められていく。
ユダは、頭を掴むマタイの手首を掴んだ。
「やめてくれ……」
「此れは重要な儀式だ。お前の大事な大事な過去を、甦らせる為の」
恐怖と拒絶で冷や汗が止まらない。焦点が定まらない。このままでは危険だと、ユダの本能が叫ぶ。
(ダメだ……。これ以上やられたら、『私』は……!)




