32話 手繰(られ)る影
励ましパーティーの翌日。ユダは事務所の業務に復帰した。
ヨハネは大丈夫なのかと心配したが、念のためにアンデレに再度治癒をしてもらったと言うユダは、昨日より顔色もよくすっきりしている。
「本当に、無理しないでくださいね。あんまり心配させられると、仕事も手に付かなくなるので。体調が悪くなったら、ちゃんと休まないとダメですからね」
「はいはい」
「顔色の変化に気付くのは、ペトロだけじゃないですからね。僕が一番付き合い長いんですから、ちょっとでも変だと思ったら強制的に部屋に帰しますから」
「わかりました」
(心配だ……)
笑みもいつも通りで本当に大丈夫そうではあるが、忠告をあまりにもさらっとかわされるので、ヨハネは余計に心配になる。
今日はヨセフも出勤し、淹れてくれたコーヒーをユダとヨハネのデスクに置いた。
「ヨセフくん。昨日は急に休みにしてごめんね」
「いいえ。体調、崩されたんですか」
「ちょっとね。でも、もう大丈夫だから」
「よかったですね」
ユダの体調不良を知っても、無表情で相槌を打つヨセフ。
(やっぱり、言葉のキャッチボール少ないなぁ……。まぁ、それが彼のスタンスみたいだし。真面目に仕事もしてくれてるから、いっか)
コミュニケーション不足は気になるが、言葉数が少ないのも愛想がないのも、彼の個性だと受け止めることにした。
メールを確認していたヨハネは、ペトロへの仕事案件のメールを読み、報告する。
「ユダ。以前お世話になった飲料メーカーのフィッシャーさんから、メールが来てます」
「……フィッシャー……?」
「新しい広告を撮りたいそうなので、あとでペトロに話を通しておいてもらえますか」
「えっ、と……」
ペトロの仕事案件なのに、いつものウキウキで返事がないのでヨハネは不思議に思った。顔を見ると、なぜかユダはぽかんとした表情をしている。
「どうしました?」
「フィッシャーって……?」
「だから。炭酸飲料のオファーをしてくれた、ペトロの熱烈ファンを公言してるっていうフィッシャーさんですよ」
「……あ。あぁ……。フィッシャーさんか」
どうやら、あんなに意気投合していたフィッシャーのことを忘れてしまっていたようだ。
「どうしたんですか。一度会った人の顔と名前を忘れないあなたが、契約企業の担当者の名前を忘れるなんて……」
「あはは。なんでだろうね」
「大丈夫ですか?」
「病み上がりだからかな」
ユダは大丈夫だと微笑んでいるが、どうもいつもの微笑みとはクオリティーが違う気がするヨハネ。
「そちらにメール転送するので、内容を確認してペトロに言っておいてくださいね。新しい広告ということは契約継続ですから、嬉しいことですよ」
「そうだね。これからペトロの仕事は、もっと増えるだろうね。今のところ断ってる専属モデルの話も、いつか受けられたらいいんだけど」
ボケでもなんでもなく、ユダは普通に言った。ヨハネは驚いて、少し怪訝な面持ちになる。
「何言ってるんですか。専属モデルの話は受けて、この前撮影に行ったじゃないですか」
「え?」
「ユダも、ウキウキしながら付いて行きましたよね」
「…………」
そう言われたユダは、戸惑いの瞳を揺らす。
仕事関係の人物の名前を忘れたり、あれだけ望んでいたペトロの専属モデルが決まったことまで忘れていた。
「本当に大丈夫ですか? まだ無理できなかったんじゃ……」
「おかしいな。まだ本調子じゃなかったのかな」
ユダは、不安を隠すように笑ってみせる。しかし、それを隠しきれていない無理な笑みは、ヨハネを余計に心配させた。
「だから、無理はしないでくださいって言ったのに。部屋戻りますか?」
「そこまで不調は感じてないから、少し休むくらいで大丈夫だよ」
「そうですか……? じゃあ。今日は別に来客もないので、応接スペースのソファー使ってください。僕は、部屋からハーブティー取って来ます」
ヨハネはカモミールティーの茶葉を取りに、いったん自室に戻った。
突然の記憶の欠落に、ユダは不安を覗かせる。自分自身の記憶としてあるはずのものが、覚えている必要がないかのように、薄れてしまっているような気がしてしまう。
自分が自分でないかもしれない恐怖が、いくら払っても影のように付き纏う。
「……大丈夫ですか」
空いているデスクで書類の整理をしていたヨセフが、話し掛けた。
「え?」
「顔色がよくないようなので」
「ちょっと、無理をしてたみたい」
「なら。言われた通り、休まれたらどうですか」
「うん。そうするよ」
ユダはネクタイを緩め、立ち上がって応接スペースに足を向ける。
「記憶のブレですか?」
しかし、またヨセフが訊いてくるので足を止めた。
「えっ……。ブレというか……」
「それじゃあ。記憶が戻りそうなんですか?」
「うーん。そういうわけでも……」
「過去の記憶が、一瞬でも過ることは?」
「夢にうなされることはあるけど、それはないかな」
(やけに気にしてくれてるな……。そういえば前にも、記憶のことを訊かれたな)
ユダの体調を訊くヨセフだが、背を向けたままで、書類整理を続けながら質問を続ける。
「うなされるんですか。どんな夢を?」
「目覚めると、ほとんど覚えてないんだ。でもなんとなく、目を背けたくなる夢のような気がする」
「もしかしたらその夢が、記憶喪失のヒントなんじゃないんですか」
「悪夢が、記憶喪失のヒント?」
「その夢が、あなたの過去と関係しているんです。きっとあなたの脳が、深層が、遺伝子が、早く過去を思い出せと言っているんですよ」
坦々とした口調で、ヨセフはおかしなことを言い始めた。
ユダは怪訝な表情になり、その背中に尋ねる。
「もしかしてきみは、私のことを知っているの?」
「いいえ。あなたのことは知りません」
「でも、今の口振りは……」
「自分は、ユダ・フランツ・ノイベルトのことは知りません」
ヨセフは紙で指先を切った。少し深く切ってしまったようで、傷口から赤い血が玉になって湧き出てきた。
「すみません。傷を塞ぎたいんですが」
ヨセフは振り向き、心配する口調と同じ調子で怪我の手当てをしたいと言った。




