25話 何者─不安─
オレンジ色と藍色の空に三日月が浮かぶ、黄昏時。
心を癒すような温もりの明かりが灯る中、ユダはソファーに座り、項垂れていた。
キッチンから出て来たペトロは、カモミールティーを淹れたマグカップをそっとローテーブルに置いた。
「大丈夫か?」
優しく声を掛けると、ユダは幾分か気分が落ち着いた顔を上げる。
「うん。ちょっと混乱してたけど、少し落ち着いたよ」
「解放された瞬間に力使うなんて。無茶し過ぎだ」
助太刀をされた時はまだ視覚を失っていたので、そのことはヨハネに教えてもらった。
「ごめんね。でも、ペトロもそうだったよ」
「あ……。そうだっけ?」
憤怒のフィリポとの戦いを振り返ると、確かにペトロも、棺から脱出してすぐ余る気概で向かって行っていた。
ペトロは、ユダの隣に座った。そして、お揃いのマグカップで同じカモミールティーを一緒に飲む。
ユダは、ホッとしたような息をついた。ペトロもなんだか、ようやく心が落ち着いたような気がした。
「……ペトロたちは、あんな世界で孤独に戦ってたんだね。とても怖かったよ」
「ユダも、何か見せられたんだな」
「うん。見たは、見たんだけど……」
「無理して、今話さなくてもいいよ」
ユダのトラウマを見ることができなかったペトロは、どんな状況に陥ったのか訊きたかった。けれど、棺から解放されたばかりの精神の不安定さは身をもって知っているので、話を聞くのはもう少し気持ちが落ち着いてからでいいと言った。
しかし、ペトロたちのようにトラウマで追い詰められたわけではないユダは、大丈夫だと首を横に振り、棺の中で起きたことを静かに話し始めた。
オレンジ色の夕焼け空を、藍色が段々と侵食していく。
「不思議な空間だった」
「不思議?」
「辺りは真っ暗で、深い霧が立ち込めていたんだ。他には何もなくて、誰もいなかった」
「何もなくて、誰もいなかった……」
自分がトラウマを見せられた時とはだいぶ違うなと、ペトロは思う。そこからトラウマを体験させられたのだろうかと、続きに耳を傾ける。
「そしたら、大きなT字の黒いモニュメントが現れて」
「T字のモニュメント?」
「それに、一人の男性が映ったんだ。四十代くらいの、知らない人だった」
(ユダ本人じゃなくて、知らない人……)
不思議な展開に、僅かにペトロは眉をひそめる。
「モニュメントは一つだけじゃなくて、何十も現れた。その全てに知らない男性が映っていて、現れるたびに服装が時代を遡っていた」
(てことは、昔の人?)
「その人たちは、口を揃えてこう言っていた。『忘れるな』って」
「忘れるな? 何を?」
ユダは戸惑いの表情で「わからない」と首を振った。
「それが、棺の中で起きたこと?」
「そう」
どんなトラウマを見せられたのだろうと想像を働かせて聞いていたペトロだが、想像していたことは一つも起きていなかった。トラウマとして刷り込まれた出来事が起きた時間や、場所や状況が再現されたのではないことが、少し不可解だと感じる。
「私は、何を忘れてるんだろう……」
何も考えることのできないユダは、再び動揺を滲ませた目を伏せる。
トラウマが再現されなかったことよりも 口々に言われた「忘れるな」という言葉が忘れられなかった。ずっと頭の中で響いていて、どこに落としてしまったかわからないスマホが気掛かりで、仕方がないような気持ちだった。
「記憶に変化は?」
「何もない。でも、『忘れるな』と言われて、理由もわからず動揺した」
(ということは。ユダのトラウマが、少なからず刺激されたってことか?)
棺はトラウマを引き出し、精神を掻き乱す術だ。動揺したということは、ユダが見たものはトラウマと関係のあるものだとペトロは推測する。
「『忘れるな』って、何を? 私が忘れてる大事なことって、何なんだ。記憶を失くす前の私は、一体何を……」
ユダは頭を抱える。不安に駆られるその表情は、未知の病に侵されたように苦悶する。
(ユダが不安を感じてる……)
初めて見る表情に、ペトロの胸は苦しくなる。自身の知らない過去で悩み苦しんでいるのが、手に取るようにわかる。
ペトロは、丸まる背中にそっと手を添える。
「大丈夫だよ、ユダ。無理に考えようとしなくていいから」
自身の過去には、拘っていなかった。記憶が戻らなかったとしても、これからまた記憶を積み重ねて自分を作っていけばいいと言っていたユダが、失われた過去に囚われ始めている。
するとユダは、前回の戦闘でのことに自ら言及し始めた。
「前の戦い……。ゴエティアのアミーとの戦いで、幻聴を聞いたんだ」
あの時は少し顔色を悪くし、ちょっと幻聴にやられただけだと大して気に留めていなかったようだった。だが、ペトロは何を聞いたのか気になっていたので、慎重に尋ねる。
「何を聞いたか、訊いてもいいか?」
「『お前は、誰だ』。『お前は、偽者だ』。『本性を現せ』。『お前は、何者だ』」
「何者……」
「こんなのはただの幻聴だし、気にすることはないと思ってた。だけど。あれから繰り返し問い質してきて、私も、自問自答を続けてる」
あの幻聴を聞いた時から、ユダは自分自身を探し始めていた。“そうしなければならない“というよりも、“そうしろ”と先導されているように。




