20話 不知覚
トマスの棺に囚われた現実世界の姿のままユダは、目蓋を開いた。
「ここは……」
真っ暗だった。深閑の夜陰などではない。辺りには何もなく、深い霧が立ち込めた暗闇の空間。
(ここが、棺の中……?)
「真っ暗で何も見えない」
真っ暗な上に霧が視界を遮り、無闇に歩き回れない。どこに危険が落ちているかもわからないので、ユダは動かず警戒して辺りを見回す。
(誰もいないのか。さっきの死徒も……)
さっきからずっと、人の気配もなく、微かな物音もしない。一つの光も、風も、何も現れる様子がなかった。
と思っていたその時。「……!?」視界の端に何かを捉えたユダは、バッ! と振り向いた。
「……なんだ。これは……」
何もなかった場所にいつの間にか立っていたのは、黒っぽいT字型のモニュメントのようなものだった。身長が180センチ以上あるユダより少し低い高さで、材質はわからないが艶がある。
その艶のある表面に、一人の男性が映し出された。それはユダの姿ではなく、見知らぬ人物だ。四十代くらいの年齢で、シャツとジャケット、スラックスと革靴を着用した服装は、一昔前のようなレトロさがある。
「!?」
一体誰なのかと戸惑っていると、右にも左にも同じT字のモニュメントが現れ、それらにも見知らぬ男性が映し出された。一人目と同年代と、それより少し若めの男性だ。
服装を見ると、カジュアルな服装にハンチング帽を被っていたり、サスペンダーを付けていたり、だんだんと時代を遡っている。どうやら、それぞれ生存年代が違うようだ。
「なんなんだ。これは……」
自分の姿ではなく、過去の人物たちを映すモニュメントの思惑がわからず、ユダはただ困惑する。
トマスは棺の中へ消え、残された五人はゴエティア・シャックスと相対する。
しかしペトロは、ユダを囚えた棺からなかなか心を離すことができない。
「ペトロ。大丈夫か」
「……大丈夫」
ヨハネに声を掛けられ、ペトロは返した。上辺だけの平静なんて気休めでしかないが、偽物でも蓋をしておかなければ、目の前の敵を相手にはしていられない。
「そういや。お前が仕えてる死徒の名前は?」
「主の名は、『惨苦のトマス』。御覧になられた通り、主は気が弱いお方だ。あまり苛めないで頂きたい」
「おれたちはイジメてなんかいないぞ!」
むしろイジメられてる! と抗議の声を上げるアンデレ。
「完全に勘違いだ。それに僕たちは、僕たちのやるべきことをやろうとしているだけだ」
「左様か。弱き者を歪んだ正義で裁く事が、其方等の役目と申すか」
「ボクたちの正義が歪んでる?」
「勘違いしまくりだな。一体どっちの正義が歪んでるのか、考え直してみた方がいいぜ?」
「ならば。明白にさせようではないか」
シャックスは、羽が付いた両腕をバサッと広げた。同時に羽根を撒き散らされ、五羽の鳩が現れてペトロたちの前に一羽ずつ降り立った。
「鳩?」
「悪魔が、平和の象徴を使い魔にしてんのかよ」
「今はブロート持ってないんだよ。ごめんなー」
アンデレはしゃがんで鳩に謝っている。
「アンデレ。真面目にやれよ」
「ごめんごめん。いつも習慣で……」
ペトロに注意されたアンデレは、立ち上がろうとした。しかし、ふらついて倒れてしまう。
「あれ?」
「おい。しっかりしろよ。戦いはまだ始まってもいないぞ」
「わかってる。わかってるんだけど……。え。おえ?」
アンデレは何度も立ち上がろうとするが、一生懸命立とうとしてもできない幼児のように、身体が言うことを利かない。
「立てないんだけど。なんで!?」
「はあ? お前ふざけて……。ん?」
すると、身体に異変が起きたヤコブは片目を覆い、平衡感覚を失ったようにペトロまで倒れ込んだ。
「ペトロ!?」
「……ヨハネ?」
「どうした!」
「急に視界が真っ暗になって。何も見えない」
突然視覚を失ったペトロは、一点を見つめ動揺している。
「何も?」
「ヤコブ!?」
ヨハネが振り向くと、ヤコブまで倒れ込んでいる。その異変は、次々と伝播する。
「一体何が……。っ!?」
そしてヨハネも、急に仲間たちの声が遠くなったかと思うと、戸惑う間もなく何も聞こえなくなる。
「……聞こえない」
「ヨハネ?」
「ヨハネさん、どうかしたんですか!?」
「言葉も音も、何も聞こえない」
「!?」
聴覚を失ったのはヨハネだけでなく、シモンもだった。だが、こんな突然に集団異変が起こる原因は一つしかない。
(やつの能力か!)
「お前、シャックスとか言ったな。オレたちに何をした!」
「其方等の知覚である視覚、聴覚、そして運動感覚を奪わせて貰った」
ペトロとヤコブは視覚を、ヨハネとシモンは聴覚を、そしてアンデレは運動感覚を失ったのだ。
「姑息なマネしやがって……」
「アンデレ、動けないのか!?」
視覚を失ったペトロは、振り向かずにアンデレに尋ねた。アンデレは倒れたままで、その場から動けなかった。
「ほとんどムリっぽい!」
「ハーツヴンデも出せないか!?」
(そっか。おれの治癒能力!)
「たぶん出せる!」
ペトロの言葉の意図を汲み取り、先程活躍しそびれたアンデレはハーツヴンデを具現化する。
「心具象出───〈護済〉!」
しかし、身体に力が入らなくて杖の柄を握ることができない。
(手に力が入らない! でも、持てなくても触れれば……!)
「心を癒せ 心魂は不可侵、黒雲は沈降に非ず。祝福を受けよ!」
アンデレは已む無く〈護済〉を地面に置いた状態で触れ、精神治癒を行った。
「どうだ、みんな!」
「今、やってくれたんだよな?」
「やったんだけど……」
しかし、ペトロたちの表情に変化はない。
(効いてない!?)
「もっかいやってみる! ───心を癒せ 心魂は不可侵、黒雲は沈降に非ず。大いなる祝福を受けよ!」
アンデレは、力を増大させて再度試みるが。
「……ダメだ」
治癒は、全く意味をなしていなかった。




