43話 風船
数日後。ヨハネの体調が回復したので、休業していた事務所は今日から業務再開となる。
ユダとヨハネは、一緒に事務所へと降りて来た。
「さて。今日から業務再開だね。メールも全然見てないし、やること溜まって大変だなぁ」
「そうですね」
事務所を立ち上げてから、土日祝日以外に休んだことはなかった。前日にホームページとSNSで一時休業のお知らせはしておいたが、仕事が山積みだ。
「とりあえず。今日中に片付ける件を優先しよう。それ以外は、後回しでいいよ」
お互い、ちょっとだけ億劫になりながらデスクに着こうとした。その前に、ヨハネは話したいことがあった。
「あの……。ユダ」
「なに?」
「仕事の前に、ちょっとだけいいですか」
二人は応接スペースのソファーに、向かい合わせで腰を下ろした。
「先に。この期間、僕のことを気遣ってくれて、ありがとうございました」
「ううん。回復して安心したよ」
「でも、ペトロはいい気しませんでしたよね。まだその件について僕から何も言えてないので、あとでちゃんと謝っておきます」
「私が十分フォローしておいたから、ペトロもちゃんと聞き入れてくれるはずだよ」
感謝を伝えたヨハネは一呼吸置き、誠意をもってユダへ話すべきことを話すために、謝罪から切り出した。
「今回ユダには、一番迷惑を掛けてしまいました。本当にすみません」
「それはもういいよ」
そして、現在の思いと選択したことを話した。
「自分の気持ちを誰に向けたいのかわからないと、この前言いましたが。今でもまだ、僕の気持ちはどっち付かずなんです。レオのことをまだ好きなのは、はっきりしました。だからユダへの気持ちは、外見が似ているから気持ちも被らせているのかもしれません。でも、あの冬の日。僕はあなたに救われて、確かに心が惹かれていった……。そう思ってます」
ユダは、ヨハネの心情に配慮して尋ねる。
「ヨハネくんは、次へ進むことを望んでるよね。それは、過去の恋を振り切るために?」
「はい。いつまでも縋るわけにはいかないと思って」
(だけど。ユダとレオをダブらせてる時点で、次へ進むことは簡単じゃないことに気付くべきだった……。そしたら僕は、また橋の欄干に立っていただろうか……。いや。たぶん、立たない)
「僕は棺の中で、レオと一緒に逝こうとしてました。でも、今の気持ちのまま一緒にいたら、またレオを傷付けてしまう。それは嫌でした。一緒に逝くことが正しかったとしても、二度も同じ間違いをしたくなかった。お互いのために、もう何も偽ったり誤魔化したくなかったんです」
棺の中で精神を侵された状況でもそう選択したヨハネに、ユダは敬意を表して言う。
「ヨハネくんは、慎み深い人なんだね」
「そんなことないです。勘違いから勝手に嫉妬した、愚か者です」
「でも、変わったんだよ。変わったというか、たぶん、きみは本当はそういう人なんだよ。好きな人を思い続ける、純真な心を持ってるんだ。彼のことを忘れられなくて縋ろうとしていたのも、彼の気持ちを軽んじることなく、優先しようとしてたからじゃない?」
「でも。僕が縋るなんて間違ってるんです。傷付けたくないからって理由で一緒に逝かなかったけど、本当は……」
まだここにいたかった。使徒としてユダの側にいたいと、罪悪感の後ろで密かに思ってしまったんだと、レオよりもユダを選んでしまったことをわかっていた。
そのヨハネの罪悪感が見えているように、ユダはそっと心を寄り添わせる。
「ヨハネくんは、絶対に利己的な人じゃないよ。自分を恨んでるかもしれない彼を傷付けたくないなんて考えるのは、きみが利他的な人だからだ。じゃないと、一緒に逝くことなんて微塵も考えなかったはずだよ」
「ユダ……」
「私はまだ棺に囚われたことがないから、ちゃんときみたちに寄り添えない。だけど。ヨハネくんの選択を、誰も正しく責めることはできないのはわかる」
その言葉で、ヨハネの心は少しずつ光に照らされていくようだった。あの冬の日の朝に昇った太陽が、伸ばした手の指先に体温を分けてくれている。
(やっぱり。僕がユダに出会ったのは、運命だったんだ)
ヨハネはもう一度、それを確信した。けれど今は、違う意味の確信だ。
「ありがとうございます。ユダには、感謝することばかりです」
「少しでもヨハネくんの支えになれたなら、それでいいよ」
「それで。感謝のついでじゃないんですが……。ユダへの気持ちを手放せる自信が、まだないんです。自分自身を惑わしている原因かもしれないけど、もう少し、大事にしてていいですか。二人の邪魔をするつもりはないので」
「ヨハネくん……」
ユダは、僅かに戸惑いを浮かべる。
(僕が二人の仲を嫉妬していたのは、僕とレオにあったかもしれない未来を見ているようで、悔しくて羨ましかったんだ。だけど、気持ちが少し整理できた今は、自分の心の内とちゃんと見つめ合うことができる)
今回の経験を経て、形が安定しなかったものがちゃんと形になってきている気がした。風に身を委ねるシャボン玉から、飛んで行かないように紐を掴んでいられる風船のように。
(だから)
「感謝と親愛の思いを心の隅に留めて、心の支えにしたいんです」
(僕は、次へ進むことに拘らない。今は、立ち止まることが必要なんだ)
どっち付かずかもしれないが、それぞれへの“特別な思い”は確かにあると信じていた。自分をこの世界に留めている大事なものだから、ちゃんと時間を掛けて向き合いたかった。
「もしもダメなら、忘れられるように努めます」
ヨハネは、過去と現在のあいだを迷いながら生きようとしているのだと、真っ直ぐな姿勢から見て取れた。
もしかしたら、その迷う手を取れたかもしれない。隣で支えながら歩めたかもしれない。それは叶わなくても、近くでささやかに支えられたら。
ユダは、穏やかな面持ちで一つ首肯する。
「それがヨハネくんの望みで、私にできることなら」
「ありがとうございます」
ヨハネは安堵したような、切なそうな、穏やかな笑みを浮かべた。




