41話 取りたい手。呼ぶ光
溜まり続けるヘドロは、膝まできていた。
レオ以外を求めることは赦されないと諭されたヨハネは、口からヘドロを溢れさせ、もう足掻くことすらしていなかった。
(僕は、次へ進みたかった。そうしなきゃならないと思ってた。でもそれは、ただの自己満足で、自分を正当性で守ろうとしてただけなのか……。でも本当に、レオのことは忘れなかった。次へ進もうとするたびに思い出すから、そんなことできなかった……。やっぱり、進むのは許されないということなのか。それは、レオへの裏切りだから。ずっと一緒にいる約束を反故にした僕の罪が、そうさせてるのか……。でも。レオに縋れば、それが償いになる。一緒に逝けばレオが喜んで、僕は、約束を果たせる……)
顔のないレオは、愛する者が首を縦に振ってくれるのを待っていた。
「ヨハネ。一緒に逝こう。お前と、幸せになりたい」
レオは、唯一身体に繋がっている左手で、愛おしそうにヨハネの頬に触れる。彼の顔が見えるヨハネには、その表情が生きている頃の優しい面持ちに見えた。
(レオ。なんて嬉しそうな顔してるんだ。そんなに、僕のことを思ってくれてるの?)
生前と変わらない真っ直ぐに思いを向ける眼差しが、とても懐かしかった。
ヨハネの脳裏に、レオと過ごした掛け替えのない青春の日々が一ページずつ甦る。その儚さに胸がいっぱいになり、締め付けられる。
(レオは、僕のことを大切にしてくれた。その気持ちに嘘はなかった。優しかったレオ。大好きだったレオ。別れる時も怒鳴り散らすこともなくて、いつも僕の怒りを宥める時と同じように、静かに受け入れてた……。本当に僕は、レオになんて酷い仕打ちをしてしまったんだろう。もっと早く、レオの存在の大きさに気付いていれば……)
未熟ゆえの罪の後悔に縛られ続けた、長い年月。取り戻すには遅過ぎると諦めて、次へ進もうとした。けれど、進めなかった。それは、レオが何者にも代え難い存在となり、ヨハネの中に確かに刻まれていたからだ。
(僕はもう、どうせ次には進めないんだ。だったら一緒に逝った方が、お互いに後腐れがない。僕は、自分の気持ちに嘘をつき続けた。レオへの思いを忘れようとして、次へ進むことで自分の気持ちを偽ろうとした。そんなのは、無理だったんだ)
ヨハネは、レオに右手を伸ばした。間違えたあの日から、やり直そうと。約束を果たそうと。
すると。伸ばした手の向こうに、微かな光が点っているのに気が付いた。
(光……?)
「何なの。あの光」
マティアも気付き、再現したトラウマとは関係のない現象の出現に訝しる。
「……光だ」
レオを選ぼうとしていたヨハネだったが、彼よりも、その光の方に気持ちが傾きそうになる。
(なんで……。どうしてこんなに、あの光に心が惹かれるんだ……。レオと逝きたいのに。逝かなきゃいけないのに)
いつの間にか、口の中のヘドロが消えていた。ヨハネの手は無意識に光の方に伸ばされ、光に当たる掌から、不思議と心地よさを感じる。
(ほんのり温かい木漏れ日のような、前にも感じた温かさ……。それに。一度だけ、触れたことのあるような……)
「……誰だ?」
(そこにいるのは、誰なんだ)
光に近付きたいヨハネは、ヘドロの中を進もうとする。しかし、腰まで溜まったヘドロは重く、なかなか一歩を踏み出せない。
「何をしようとしてるの。貴方はもう戻れないのよ」
わかっている。進むのではなく、戻るしか赦されないと。
それでも、ヨハネは足掻いた。どうしようもなく光に心が惹かれ、少しでも近付きたいと。
(僕は、行かなきゃならない。僕を呼んでる、あの光のもとへ)
その執念にも似た強い思いの力で、ヘドロの海を一歩を踏み出した。
「矢張り、彼を裏切るのね。貴方はどれだけ、彼の尊い思いを踏み躙れば気が済むの」
呆れ顔のマティアの厭悪の言葉は、霞んで聞こえた。光を求めるヨハネは、引き始めたヘドロの海を一歩ずつ進む。
ところがレオは、再び別の選択をしようとする手を掴んだ。
「ヨハネ」
「レオ……。ごめん。やっぱり、一緒に行けない」
「なんでだ」
その目は、瞋恚を浮かべていた。また彼を裏切ってしまう罪悪感に胸を詰まらせながら、ヨハネは謝罪する。




