32話 二人だけの思い出
少し遅めの朝食を済ませたユダとヨハネは、昼過ぎになってから以前住んでいた地域に車で向かった。
トラディショナルな旧集合住宅と、第二次対戦後に建てられた近代集合住宅の両方が入り交じる、ミッテ地区北西の郊外の住宅地。ここが、二人が過ごした街だ。
まだ霞むには早い記憶を辿り住んでいた建物を探し、横長に建てられた茶色い壁の、少し古めの近代集合住宅の前に停めた。
「ここだ。まだそんなに月日は経ってないはずなのに、なんか懐かしいなぁ」
「僕たちが住んでたのは、あのあたりの二階でしたよね」
ヨハネが指を差すとユダは「そうそう」と相槌を打って、二人は車に寄り掛かりながら思い出を歓談し始める。
「ルールとかわからないことがあると、昼夜関係なく訊きに行ってたよね。今思うと、迷惑だったよね」
「そんなこと……。でも確か、それが五日くらい続いて、お互いの連絡先を交換しませんでした?」
「そうだったね。ヨハネくんからそう言ってくれたんだよね。本当は私もそう思ってたんだけど、まだ知り合ったばかりで言いづらくて」
「そうだったんですか」
「あと、消耗品を貸し借りしたこともあったね」
「洗剤とか、調味料とか。ユダは、最初から料理が上手かったですよね。だから何気に、ご飯に呼ばれるのが楽しみでした」
「ヨハネくんのご飯もおいしかったよ。今は、あの時より少し上達したんじゃない?」
「本当ですか?」
二人は、集合住宅の前でしばらく思い出に浸った。まるで、使徒でも何者でもなかったあの頃に戻ったようだった。
そのあとは街歩きに繰り出した。黄色い看板のベーカリーや、メニューが豊富なケバブ屋、よくイートインで利用していたカフェに、日用品の買い物で毎週行っていたショッピングモールなど。思い出がそこらじゅうにあって、店を見つけてはちなんだエピソードを話し、散策しているあいだはずっと話が尽きなかった。
ヨハネは二人きりの時間が続いても緊張もなく、穏やかな胸の高鳴りが心地よくて、自然な笑顔が溢れた。
「一通り巡ったら、結構時間掛かっちゃったね。もう夕方だよ」
「楽しくて時間を忘れましたね」
「そろそろ帰る?」
ユダが訊くと、ヨハネは少し考えた。
「……帰る前に。もう一ヶ所、行っていいですか」
行きはユダが運転してくれたので、今度はヨハネが車を運転をして移動した。
ヨハネが車を停めたのは、思い出の街から少し南下した、シュプレー川に掛かるモアビタ橋だった。石造りの橋脚で、両端には州の象徴である、愛嬌のある熊の像が二体ずつある。
車を降りたヨハネは橋を歩き、一つ目の街灯がある場所で立ち止まった。
仲夏の夕方の太陽は、まだ見上げられるほど高い位置だ。強い西日が周辺のビルのガラスや水面に反射して、ギラギラと眩しい。
その光が痛いほど輝いているように見えるヨハネは、少し目を細める。暑さを一時的に忘れ、彼の中の気温はぐんぐん下がっていく。
「ここでしたよね。ユダと最初に会ったのは」
ヨハネは、落ち着いた声音で話し出す。その心情を察するように、ユダは調子を合わせた。
「そうだったね……。今でも覚えてるよ。前日まで降っていた雪が残る、朝焼けが近い一月の早朝だった」
「雪なんて、ありましたっけ」
「あったよ。気温もマイナスで、とても寒かった」
「そんな寒い中に、僕はいたんですね」
まるで、その時の記憶が抜け落ちているかのように、ヨハネは言った。
眩しい西日が、ヨハネの目にはその日見た朝ぼらけに浮かぶ月に見える。その周りの空は、朝を目隠ししている色だった。
「そういえばユダは、あんな時間に何をしてたんですか?」
「早朝散歩。あのころは、街探検が習慣だったから」
「真冬の早朝にですか?」
「たまにはって思ったんだけど、寒過ぎてものすごく後悔したよ……。だけど、その後悔はここで消えた」
「……」
「この人は何をしようとしているんだろうって、最初はわからなかった。欄干に立って危ないな、とは思った。でも、その表情を見たら、放っておいたらいけない人だって、直感でわかった」
ユダの脳裏に、薄暗い夜明けの街に残る白い雪と、白い息、そして、その日誰より一番にどこかへ行こうとしていたヨハネの後ろ姿が甦る。
ヨハネは、穏やかに波打つ水面に視線を落とす。
「……天気予報で、気温がマイナスになるって聞いて。それじゃあ、水も氷くらい冷たくなるだろうな、って思ったんです。心臓麻痺になるかな……と」
あの日の水面をもう一度見ていたヨハネは、静寂の早朝の情景を心に投影させる。
そこまで話したヨハネは、切り出された。




