26話 選びたいけど、選べない
ヘドロに引き摺り込まれそうなヨハネは、脱出しようと懸命に足掻き続ける。
「やだ! 一緒に行けない!」
「どうしてだ。お前は、俺を愛してないのか」
「なんで連れて行こうとするんだ。僕のことを怒ってるの? 僕の間違いを責めてるの!?」
見つめられるヨハネは、真っ黒な顔のレオが自分に憤っているように見えていた。
「俺は、お前と一緒にいたいだけなのに」
「だから、僕が次に進むのを許さないのか。心中することが、レオの望みなの?」
「俺たちなら、どこにいても幸せになれる」
現実で擦れ違った二人は、生者と死者となっても擦れ違う。
足掻いていたヨハネは体勢を崩し、両手を突いた。ヘドロに意思があるかのように絡み付き、両手も飲み込まれていく。
足掻けば足掻くほど逃れられなくなる、ヘドロの海。手足の自由を奪われたヨハネは、逃げる気力を吸い取られるように失っていく。
「……ダメなんだ」
(僕は、次へ進んじゃダメなんだ。だからずっと、足踏みを続けていたんだ……。そうだよな。仕方がないから、間違いを犯したまま次へ進もうなんて自己都合は、許されない。何も許されてないんだから、進めるはずがないんだ……)
「それじゃあ、僕は……」
(僕が進む方向は……)
逃げることを諦め、ヘドロに全てを委ねようと選択をしかけた、その時。身体の一部に、ほんのりと温かさを感じる気がした。
(何だ……? 太陽なんてないのに、木漏れ日のような温かさを感じる……)
───戻って来るんだ!
そして、その木漏れ日から落ちて来るように、遠くの方から微かに声がした。
温かさと、情愛を注ぎたいその声を求めるように、ヨハネの心が持ち直し始める。
「……いや、だ」
ヨハネは、飲み込まれかけた腕をヘドロから引き抜いた。
「このまま、レオと一緒に行くことは、できない」
続けて右足、そして左足も引き抜き、ヨハネはヘドロの海に立ち上がった。
「えっ。嘘でしょ?」
このままいけば堕ちると確信していたマティアは、意想外の事態に喫驚する。
「どうしてだ。ヨハネ」
「もう、未練は残したくない。僕はまだ、何もできていないんだ。なのにこのまま別れたら、また同じことの繰り返しだ。やり残したことをやり切ってから、またレオと話したい」
「それじゃあ。待ってていいのか」
「うん。昔みたいに、待ち合わせしよう。次はちゃんと、レオのこと見るよ」
登校日の昼休みは必ず学校の林で待ち合わせをしていたように、レオと再会の約束を交わしたヨハネは、〈苛念〉を具現化させた。
「待ちなさい」
しかし、そんな約束など信用しないマティアは、自身の身体から鞭の〈狂炎羨絞〉を作り出し、ヒュンッ! と投げてヨハネの腕に絡ませた。
「ここは待ち合わせ場所じゃなくて、さよならをする場所よ」
もう片方の手では、鞭と鎖で繋がった棘だらけの鉄球モーニングスターを振り回し、ただでは開放しないと黄色い双眸で捕らえる。
「わかってる。ここは、別れの場所だ」
「だったら、そのまま彼と逝きなさいよ!」
腕が鞭に絡まれたまま、モーニングスターが向かって来た。
ヨハネは槍で鞭を切り、モーニングスターを後退して回避する。棘の鉄球は黒い地面にめり込むが、マティアは鎖を引っ張りヨハネの正面を狙う。
気付けば顔面に迫る鉄球を、ヨハネは槍で方向転換させながらしゃがんで避けた。しかし、足が鞭に絡み取られ吊り上げられる。
「くそっ!」
「彼氏の代わりの相手に、顔を見せられないようにしてあげるわ!」
モーニングスターが、今度こそヨハネの顔面を目掛けて飛んで来る。
「貫き拓く! 冀う縁の残心、皓々拓く!」
ヨハネは吊られた状態で、稲妻を纏った光線を放った。鉄球を狙ったつもりだったが、逆さにされていたせいで軌道がズレた。
しかし、それが幸いしてマティアの方に狙いが逸れたおかげで、マティアが避けるとモーニングスターの軌道も僅かに逸れ、ヨハネは上半身を起こし、髪を掠めた程度で難を免れた。
足に絡まった鞭を槍で切り、着地して一安心したのも束の間。
「アタシが傷物になったら、どう責任取ってくれるのよ!」
マティアの怒りがこもったモーニングスターが、三度ヨハネを狙って左側から弧を描いて飛んで来た。ヨハネは回避しようと身構えた。
しかし、モーニングスターの軌道の先にはレオがいた。ヨハネが避ければ、彼に直撃する。だが、問題ない。彼は、マティアが作った幻だ。幽体でもなく、ヨハネの脳から両目を通して投影されたものだ。
「くっ……!」
ところが。ヨハネは避けずに、モーニングスターを槍で受け止めた。サイズはバレーボールよりも小さいくせに、威力はミドル級ボクサーのストレートを食らったような感覚だ。ヨハネは、弾かれないように衝撃を堪えた。
「何で避けないの? 彼の事、見放したんじゃないの?」
「レオは、レオだ。認めたくないけど、これは、レオだから……!」
するとマティアは、モーニングスターを引いた。
「先刻、彼と待ち合わせしてたわよね。アタシにも、約束してくれないかしら」
「お前とも?」
「それとも。女性からのデートのお誘いは、好みじゃないのかしら」
マーキングした獲物を逃さんとする黄色い双眸は、デートの仲間に入れてほしいとお願いしているようには見えない。だがヨハネは。
「……そうだな。僕がお前とこうして相対したのは、無意味なことじゃないのかもしれない」
自分が逃げた過去をマティアが連れて来たのは、拒絶し続けることも、離れることも許されないからだ。ヨハネはこの戦いを、そう解釈した。
「嫉妬のマティア。お前にも、再会の約束をしておくよ」
「其の約束、信じて良いのよね?」
「ああ。約束は守るよ」
「それじゃあ次は、もっと濃厚な時間を過ごしましょ。もしも、気が変わってドタキャンしたら……」
マティアはわざと狙いを外して、見えない早さでモーニングスターを振るった。ドドドンッ! と地響きをさせながら、ヨハネの足元に一瞬で三つの穴が空いた。
「此の子の餌食にするから、覚えておいて」
闇が掛かった黄色い双眸の余韻を残し、マティアは影の中に消えた。それと同時に、棺も崩壊していった。
黒い茨の棺がガラガラと陶器のような音を立てて崩壊すると、中からヨハネが姿を見せた。
「ヨハネさん!」
「ヨハネくん!」
解放され倒れそうになるヨハネの身体を、ユダは受け止めた。
「ユダ……」
「頑張ったね」
ユダの元へ戻って来られた安堵から、ヨハネは力なく微笑んだ。
「アミーちゃん。一度帰るわよ」
棺から戻って来たマティアは、アミーに帰還を命じた。
「お嬢。獲物はまだ元気じゃないか」
「良いのよ。デートの約束して貰ったから」
「御機嫌だな」
「嫉妬しないで、アミーちゃん」
「吾輩はデートなる物に興味は無いから、嫉妬はしていない」
「やだ、ドライ〜」
マティアに回収され、アミーは姿を消した。
「他の子達も、今日は帰って良いわよ。また今度、たーっぷりアミーちゃんの相手をしてあげてね」
マティアはペトロたちにウインクし、影の中に消え去った。マタイの気配も一緒に消え、戦いは小休止となった。




