15話 彼らの内実
ヤコブに尻を叩かれて数日。ヨハネは今日も今日とて、事務所でデスクワークに勤しんでいる。
ヤコブに言われたことが毎日頭を過り、ユダをちらりと見ても、何も言わずに視線をパソコンに戻す。相変わらず、それを繰り返す日々だ。
(簡単に言えてたら、こんなに悩んでないし)
キーボードを叩く手を止め憂鬱な溜め息をつくと、ユダが気に掛けた。
「ヨハネくん。どうかした?」
「え?」
「溜め息ついてたから」
「いいえ。何でもありません」
こうしてちょっとしたチャンスが巡って来ても、秘密の箱の蓋を開けようともしない。
二人きりのシチュエーションで話し掛けられた時がタイミングだと、以前ヤコブにアドバイスされたが、ヨハネは真面目なので、さすがに業務中は弁えて口にはしない。
再び仕事に集中し始めた時、メールが届いた。シモンが広告を務めている、お菓子メーカーからだ。
「ユダ。シモンと仮契約してるお菓子メーカーから、嬉しい内容と一緒に新しいオファーが来ました」
ヨハネはユダのパソコンにメールを転送し、ユダも内容を確認する。
「新商品の広告と、正式契約か。まずはお試しでって話だったけど、正式に採用してくれることになったんだね」
「喜びますね。シモン」
「学校から帰って来たら、教えてあげなきゃね」
「それか。どうせヤコブが迎えに行くはずですから、ヤコブから伝えさせてもいいんじゃありませんか?」
「そうだね。新しいオファーの件だけ、先に伝えてもらおうか」
「正式契約の方は、サプライズってことですね」
ヨハネは、シモンに新しいオファーが来たことだけを、ヤコブ宛にメッセージを送って知らせた。
「また、賑やかな夕食になりそうだなぁ」
ペトロの初仕事が決まった時のことを思い出してユダが言うと、ヨハネはペトロの評判のことを思い出す。
私的に述べると、ペトロに関連する件はあまり気に留めたくない。けれど、ユダの本心も気になってしまい、彼のをどう思っているのかをさりげなく探ってみたくなった。
「そういえばペトロは、先方にだいぶ気に入られたんですよね」
「気に入られたというか。起用してくれた宣伝担当さんの熱が、すごかったね」
「まだ一次的な契約ですが、今回の仕事に反響があれば、正式契約になるかもしれませんね」
「そうだね。事務所の期待のホープは、これから化けるかもしれない」
ユダのその言い方が、ヨハネは少しだけ引っ掛かった。
「……ユダも、ペトロのことは気に入ってるんですか?」
「気に入ってるというか。将来を大いに期待してはいるよ。本人は、広告の仕事は三番目くらいに考えてるみたいだけど。ヨハネくんも、楽しみだと思わない?」
「そう、ですね……」
ヨハネは複雑な心境を隠して、相槌を打った。
ユダは飽くまでも、社長としての期待をペトロに抱いている。そこに、私情は挟まれていない。けれど、どこか特別視しているように聞こえてしまった。
アルバイトが休みのペトロは、電動キックボードでスーパーマーケットへ買い物へ出掛けていた。今日は気分を変え、いつもの近所の店舗ではなく、少し遠出して系列店へ足を延ばした。
自分用のシャンプーとリンスなどを買い、再びキックボードを走らせる帰り道。学校帰りのシモンと、ヤコブに出会した。
「あれ。ペトロだ」
「お帰り、シモン。ヤコブもご苦労さま」
ヤコブは、アルバイトが休みの日やシフトによっては、シモンの学校の送り迎えをしている。自転車を引いている今日は、アルバイト帰りだ。
「お前は、どこ行ってたんだ?」
「買い物して来たとこ」
「ペトロ、一緒に寄り道しようよ。今ちょうど、お茶しようって話てたんだ」
誘われたペトロは二人と一緒に、すぐ近くの博物館の隣にある、オーガニックベーカリーのカフェに入った。
飲み物だけ注文して、閉じた赤いパラソルのテラス席に座ると、ヤコブからシモンに例の件が知らされる。
「シモン。お前に嬉しい速報」
「何なに?」
「仮契約だったお菓子メーカーから、正式契約の連絡が来たって。ヨハネから連絡来た」
「本当に!?」
ヤコブがヨハネからのメッセージを見せると、シモンは満面の笑みを浮かべる。
「おめでとう」
「やったな、シモン」
ヤコブが頭を撫でて褒めると、シモンは頬をほのかに赤らめてますます笑みを溢した。
「俺に次いでシモンが正式契約になって、J3S芸能事務所は軌道に乗り始めたって感じだな」
「正式契約になったってだけで、仕事はそんなにもらってないだろ」
「そこはいいんだよ。俺らが最優先するのは、モデル業じゃないんだから。でも、オーディションは受かるようになりたいけどな」
「ヤコブは、オーディション受けてるのか」
「実は結構行ってる。けど、企業が求めてるイメージもあるから、オーディションだと使徒の肩書きが効かないんだよなー。シビアだぜー」
背凭れに寄り掛かり、ヤコブは空を仰いだ。みんなのヒーローだからと言っても、流石にオーディション百戦百勝とはいかないらしい。
「なんでそんなに積極的に……」
「ボクたちって不定期出動だから、自由に動けるようにしときたいじゃない? ペトロも、バイト中断しなきゃならない時があるでしょ。だから、定期的に大きな収入があると助かると思わない?」
「まぁ。確かに……」
「広告の仕事があれば、その時その時で収入が入って来る。そんで、そのぶんバイトの時間を減らせて、身体的にも余裕ができていつでも出動可能になる、ってことだ」
大家さんの好意で家賃はタダになっているが、毎月の生活費などの出費はどうしても発生してしまうし、貯蓄もしておきたい。使徒が二足のわらじ……いや。三足のわらじを履いてるのは、そういう理由もある。
「なるほど……。じゃあモデル業は、義務って感じでやってるのか?」
「そんなことないぞ。だんだん楽しくなってきたって感じだな」
「ペトロは今度、初めての撮影があるんだよね」
「うん。今から緊張する……」
この前のサービス撮影でさえ緊張して固まったのに上手くできるのかと、ペトロはちょっと憂鬱だった。けれど、初体験を緊張したのは、ヤコブとシモンも同じだった。
「最初は、やっぱり緊張しちゃうよー。ボクも最初は、ヤコブとヨハネに付いて来てもらったけど、全身固まっちゃったもん」
「めちゃくちゃガチガチだったよな」
「でも終わってみると、無事にやり終えた安心と、やりがいみたいなのを少し感じたんだ。だから、続けられるの嬉しいよ」
「やりがい……」
「お前も、そのうち慣れるよ。そしたら撮影なんて、お茶の子さいさいだって」
その不安は今だけだと、ヤコブは笑った。
ヤコブとシモンは、広告モデルという仕事に楽しさを見出している。そんな二人が、ペトロは少し輝いて見えた。
その時。三人の後ろの方で、グラスが割れる音がした。振り向くと、男女カップルの男性の方が、顔色を変えて喚き散らしていた。
「お前に何がわかるんだよ!」
「ねえ、落ち着いて。クリニックの先生も、大丈夫だって言ってたじゃない」
「あんな気休め信用できるか! 結局、誰にも理解されないんだよ! だから俺は……。俺は……!」
それは、ただのカッブルの揉め事ではなかった。悪魔出現の気配を感じ、三人は立ち上がった。




