26話 往復切符(とりひき)
シモンはビフロンスの後方、コンツェルトハウスとドイツ大聖堂のあいだに展開された、黒い沼の棺の傍らに膝を突く。
(ボクもこんなふうに、外と遮断された空間に閉じ込められてたんだ。ヤコブも今、この中で一人で戦ってるんだ)
「ヤコブ……」
初めてヤコブのトラウマを垣間見るシモンは、一瞬ためらうも、鉄のように冷たくて硬い沼の棺の表面に触れた。
「……!」
ヤコブのトラウマが、断片的に脳に流れ込んでくる。温かそうなリビングでギターケースを抱いて何かを叫んでいる、当時のヤコブ。彼を怒る両親と、宥める兄。テロ事件のニュース映像。そして、緑に囲まれた墓地で、ボロボロ泣くヤコブの姿。
それから六年間ヤコブが密かに抱え続けて来た感情が、シモンの心とリンクする。自分は罪人だと咎め、心を茨の蔓で縛っている。まるでシモンの心まで、茨で傷付き痛むようだった。今まで知らなかった。微塵も感じることもなかった。
シモンはすぐにヤコブを救い出すべく、固い棺の表面を思い切り叩き始め、中のヤコブに叫ぶ。
「ヤコブ! ボクはここにいるよ! ヤコブの側にいるよ! ボクの声、届いてる!?」
「シモンくん!」
ユダの声で振り返ると、残党の傀儡亡霊が迫っていた。それをペトロが、祝福の光雨で一掃する。
「こっちは任せろ!」
シモンは仲間たちの支えに感謝し、再び〈恐怯〉を具現化させ、無理だとわかりながら光の矢で棺の破壊を試み始めた。
「ヤコブはプライド高いから、ボクにもなかなか弱いとこ見せてくれないけど、少しくらい話してよ! それが、ボクが知らないヤコブだったとしても、ボクは拒否しない! 何も理解しないまま突き放したりしない! だから戻って来て見せてよ! ヤコブの弱いとこ、ボクにも教えてよ! 何も知らないままなんて嫌だから、自分を否定しないで!」
しかし、やはり放った矢は弾かれる。それでもシモンは諦めずに、思いを乗せて何度も矢を射った。
「死徒の相互干渉なんて、いつもの負けん気で跳ね返してよ! 戻って来て、ちゃんとボクに本当のヤコブを教えてよ!」
棺の中のヤコブは、全身を茨の蔓に覆われかけていた。
ヤコブを肯定する者は、この空間には誰一人として存在しない。現れる者は皆彼を否定し、拒絶し、排除を望む。虫すらもそう望んでいるとまで、思い込んでしまう。
「お前は使徒に非ず。命を奪った者に、何を救えよう」
この空間にある肯定は、バルトロマイの言葉のみ。ヤコブはその言葉の全てを水のように飲み込み、自身に浸透させていく。
「お前には何も救えぬ」
虚ろな目をし、堕ちてもいいと自分を赦しかけた。
そんな時だった。
────戻って来て、ちゃんとボクに本当のヤコブを教えてよ!
シモンの声が、微かに聞こえた気がした。
(……シモン?)
名前が刻まれた左腕から、温かいエネルギーが注がれているようだった。
虚ろだった目が、天使の梯子を見つけたように小さな光を灯す。
(そうだ……。俺はまだ、やり残したことがある。シモンにも、アレンにも何も言わないまま、脱落するわけにはいかない)
「ごめん。兄貴。もう少し、待っててくれ……。はっ!」
ヤコブは、身体を縛る茨の蔓を力を放出して散り散りにした。生気は取り戻したようだが、上げたその顔には、明日より先を見ているようには見えない。
「逃れるつもりか。頑愚め。逃げられる訳が無かろう!」
バルトロマイは鎖鎌〈蛇蝎厭霧〉を自身の身体から作り出し、ヤコブ目掛けて投げた。ヤコブは〈悔謝〉を具現化させ、罪から逃がさんとする刃の鎖を絡ませた。
「逃げはしない。逃げられないことはわかってる。だけど、猶予をくれ」
「猶予だと?」
「約束する。俺は自分の意志で、必ずまたここへ戻って来る。過去と決着を着けるために」
その言葉通り、ヤコブは静かな覚悟を胸に抱く表情をしていた。
死徒がそんな言葉を真に受け、逃れるのを許すはずがない。しかし、その面持ちから見定めたバルトロマイは、鎖鎌を〈悔謝〉から解いた。
「そんな交渉をされたのは初めてだ。巫山戯た交渉だが、良いだろう。使徒で居られる残り僅かな時間を、噛み締めるが良い。だが。怖れを成して逃げるのは赦さん。我は、お前を堕とすまで追い掛けるぞ」
「ああ。だから、俺を見張っててくれ」
バルトロマイは影の中に消えた。それと同時に、幻の世界もガラガラと崩れて消えていった。
シモンが諦めずに矢を放ち続けていた時、沼の棺の表面に亀裂が入り、ガラスのように飛散した。そして棺の消滅とともに、ヤコブが帰還した。
「ヤコブ!」
「……よお」
精神的に疲弊したヤコブは、ぎこちない笑みでひとまず無事に戻ったことをシモンに伝えた。
棺を解放したバルトロマイも影の中から現れ、ビフロンスに命じる。
「ビフロンス。一時撤退する」
「おや。主殿、宜しいのですか?」
「構わん。口約を交わした」
「口約とは珍しいですね。本当に其れで良かってのですか?」
「問題無い。あれは、信用できる」
「畏まりました。其れが、主殿の御意志ならば」
ビフロンスは命令に忠実に従い、回収された。
バルトロマイは去り際にヤコブを一瞥し、影の中に消えていった。影に覆われた街も、喧騒を取り戻す。
「無事か、ヤコブ!?」
ペトロたちが案じて駆け寄って来た。
「ああ。ひとまずな。お前らも、お疲れ」
「こっちもこっちで、始終嫌な気分だったよ」
「それはいいとして。ヤコブくん。口約って、どういうこと? 棺の中でやつと何があったの」
「もしかして。不利な約束を交わされたとか?」
ユダとペトロは、トラウマの幻覚世界という圧倒的不利な状況下で、一方的な契約でも交わされたのかと危惧して訊いた。
「俺から交渉したんだよ」
「交渉?」
「大したことじゃねぇよ。再戦を約束するから、今日は見逃してくれって頼んだだけだ」
ヤコブは、何でもないただの約束だと言う。だがその表情は、次が自身の最後の戦いになることを知っているかのような、僅かな恐れが覗く覚悟の表情だった。
「帰ろうぜ。俺はバイト中だったから、着替えついでに体調不良で早退するって言って来るわ」
「ボクも付いてくよ」
アルバイト先のレストランに戻るヤコブに、シモンは付き添って行った。ヤコブの足取りはふらつくこともなく、意外としっかりしている。
「……ヤコブのやつ、案外大丈夫そうか?」
「いや。トラウマを体験させられたんだから、精神的にきてるはずだ」
「それじゃあ、無理して……」
棺の中で極限状態に陥ったあとでも、仲間の前で気丈に振る舞うとは、ヤコブらしくはある。
その背中に視線を送るペトロは、懸念の表情を浮かべる。
棺の中で何が起こり、ヤコブの気持ちにどんな作用をもたらしたのか。それは当人にしか知り得ないことだが、なぜヤコブが再戦の約束なんかをしたのか、どうしてそんな交渉が通ったのかが、気掛かりだった。




