12話 一歩ずつ
ペトロが使徒としての役目を初めてやり遂げた、翌日。事務所で業務中のユダは、痛めた背中を労りながらデスクワークに勤しんでいた。
「イタタ……」
「大丈夫ですか?」
「うん。だけど、今後はソファーで寝るのはやめておくよ」
「それが懸命です。と言うか。どうしてペトロを、ちゃんとベッドに寝かせなかったんですか」
「ほら。おんぶしてたから、ドアを開けられなかったんだよ」
「それなら、助けを呼んでくれればよかったのに」
玄関までしか補助をできなかったヨハネは、ちょっと不満げにボソッと口にする。
「何か言った?」
「なんでもないです」
ヨハネは尖らせかけた口を引っ込めて、パソコンに向かった。
すると。仕事の新規オファーのメールが届き、ざっと内容に目を通した。
「ユダ。新規オファーのメールです。そっちに転送します」
ヨハネは自分のパソコンに届いたメールを、ユダのパソコンに転送する。
ある飲料メーカーからのオファーで、その依頼内容を最後まで読んだユダは、嬉しそうに口元を緩ませた。
「来たね」
今日も通常通りにアルバイト中のペトロは、昼食をテイクアウトして公園に来ていた。今日の日差しは暖かく、少しずつ春らしい陽気になってきた。走り回る幼児も、長袖だけで遊んでいる。
芝生に座りながらタコスを食べるペトロは、目の前の池に咲き始めた睡蓮をぼんやりと眺めていた支線を、ふと自分の手に落とした。
「昨日、本当にやったのかな……」
(一晩経ったけど、全然実感が湧かない……。でも。みんなが褒めてくれた。ユダたちもだけど、戦いを見守っていた人たちや、あの女の人の旦那さんからも)
「……できたんだよな?」
(あの人を、救えたんだよな?)
「でも。まだまだだな。ちょっと迷惑も掛けちゃったし」
あのあと、周囲に恥ずかしい姿を晒したことを思い出したペトロは、目撃した全員の記憶を書き換えたくなった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
戦闘と人々からの感謝の雨あられが終わった直後、ペトロは途端に脱力して一人では歩けなくなり、ユダにおんぶされて帰宅した。
帰りは徒歩だったので擦れ違う人々にもれなく注目され、一人で歩くと言っても下ろしてもらえず。ヤコブからは「特別サービスだぞ」と、ニヤついた顔でからかわれ、宿舎に着くまでユダの背中に赤面を隠した。
部屋に戻って来た時には眠気にも襲われていて、ユダの背中から彼のベッドに下ろされる前には、自力で歩くことはすでに諦めていた。
その頃には入相で、窓から見える中庭の木々や建物の壁に、西日が定規で引いたような斜めの影を作っていた。
「ごめん。ありがと」
「緊張と不安とやる気でエンジンフルスロットルして、一気にエネルギーを消費した感じかな」
「なんか、不甲斐ない……」
「しょうがないよ。深層潜入に、ハーツヴンデの具現化と、祓魔を連続でやったんだから。初めてなのによくやったよ、きみは」
ユダはベッドサイドに腰掛けながら、一生懸命やり遂げたペトロを微笑して称えた。
「よくわからないけど、必死だったんだ。何となく、できるような気がしたから」
「勢いも大事だけど、無理はしない方がよかったね。初めてだから、相互干渉の負荷もあっただろうし」
「相互干渉……?」
「私たちと憑依された人は似た者同士だから、波長が合うんだと思う。だから、深層潜入もできるんだ」
「波長……?」
眠気でぼんやりしながら聞き返すと、ユダは「電波みたいな。ビビビッて」とわかりやすく教えてくれた。
この怠さもそのせいで、ベッドが心地よく感じるのも、怠さと眠気のせいなんだろう。
さっきユダの背中から匂った同じ香りが、ベッドからも匂う。
まるで、アロマを嗅いだようにリラックスしてきてしまったペトロは、次第に現実と夢の狭間が曖昧になってきて、今なら普通に話せる気がした。
「ユダ……。オレ。使徒の本質的な部分を、勘違いしてたかも」
「勘違い?」
「うん……。人の気持ちを知るって、使徒ならもっと簡単にできると思ってた。だけど。特別な力があっても、その人がどう救われたいかまではわからない。だからオレは最初、あの人の救い方がわからなかった。何を罪深く思って苦しんでるのか、理解できなかった……。だけど、心の声を聞いてるうちに、一つだけ、すごく心に入ってくる言葉があったんだ。その言葉に気付けたから、オレはあの人を救えた」
ユダは慈悲深い面持ちで、ペトロの話を聞いていた。
「あの時わかったんだ。使徒は、その人の苦しみの全てを受け止めてるわけじゃない。全体を受け止められたとしても、それは大雑把な救いで、その程度なら誰にだってできる。使徒がやることは、その人が一番掬い取ってほしい言葉を拾って、前向きになれる目印を付けてあげること。だから深層に潜って、その人の言葉を聞くんだ。そしてその行動は、自分の中のトラウマと向き合うことにも繋がっていく……」
日が落ちていくにつれて、窓の外は影に覆われていくのを、ペトロは話しながらぼんやりと見ていた。
「使徒は、人々を罪悪感から解放する“手助け”をするために、戦ってるんだな。オレは、自分のためになるならと思って、使徒になった。でも、その利己的な考え方は間違ってた。自分を優先してたら、きっと誰も救えない。強くなれない。オレたちは、自分にも似た感情があるから深く寄り添える。その人が掬い取ってほしい言葉も、わかる。それが、使徒にしかできない救い方なんだ」
ユダは微笑を湛えて頷く。
「わかってくれて嬉しいよ……。そう。自分自身のためになるのは、救わなければならない人を救ってからのことなんだ。深層へ潜入して、その人を通して改めて自身を見つめることで、強くなれるんだよ」
「初めてやってみて、その難しさとすごさがわかった。トラウマを抱える、心の痛みの違いも……。自分と違う境遇だったから、余計に救えるか不安になって怖くなった。ちょっと、諦めそうになった。だけど……」
ペトロは、自分に感謝する女性の家族の表情を思い出す。
「諦めなくてよかった」
やり遂げた実感はまだないが、ただ一つ、その気持ちだけはペトロの心に強く残った。
「救う人と向き合う時は、使徒してと同時に、一人の人間として一対一で向き合うことになる。それは時に不安を煽られ、躊躇させられる。ヨハネくんたちも最初は、ペトロくんのように言ってたよ。でも。やるべきことがわかれば、あとは不安はないよ」
ユダの羽毛のような声音がペトロを安心させ、だんだんと眠りにいざなう。
「ヨハネたちが、応援してくれたおかげもあるよ。もしもオレ一人の戦いだったら、絶対に無理だった。だからこれからは、みんなとの信頼関係を築きたい。強くなりたいけど、まだ半人前だから」
「きみはもう、立派な使徒だよ。みんなにそのことを直接言ってあげると、喜ぶよ」
「直接は、恥ずかしいな……。だけど今日、仲間になれてよかったって、初めて思えた……。それは、いつか、言いたい……かな……」
重たくなった目蓋がペトロの碧い瞳を塞ぎ、寝息が立てられる。とうとう、ユダのベッドで眠ってしまった。
「今日は頑張ったね。お疲れさま」
微笑を浮かべるユダは、自分のベッドで無防備に眠りに就いたペトロの柔らかな髪に触れ、撫でた。
その行為がまた、胸に火花を散らせた。
睫毛が長く、薄暗くなっても白磁のように美しい肌の寝顔を見つめる。
その肌に吸い寄せられるように、ユダは片手をベッドに沈め、顔を近付ける。
ペトロのブロンドに、ユダのチョコレート色の前髪が少し重なる。
白磁の頬に、唇が触れそうになった時。静かに火花が小さくなり、身体を起こした。
でもまだ。胸の中でパチパチと鳴っている。
「……」
ユダは自分の手の甲に唇を当て、その手の甲でペトロの頬に触れた。
数時間後。午前0時を過ぎた頃に、ペトロは目を覚ました。
(あれ……。いつの間にか寝てた……)
「喉乾いた……。お腹も空いた……」
自分のベッドではないことに寝惚けて気付かないペトロは、喉の渇きと空腹を満たそうとベッドから下りた。
すると。ソファーの肘掛けから足をはみ出させ、毛布を掛けて寝ているユダを発見した。
(あ……。オレ、占領しちゃってたのか……)
ようやく気付いたが、寝ているところを起こすのも申し訳ないと思い、敢えて声を掛けず、キッチンへ行こうとした。
「痛っ!」
寝惚けついでに、ローテーブルの天板に足をぶつけてしまった。その振動で、乗っていたユダのスマホが床に落ち、衝撃で画面が明るくなった。
(え……)
その待ち受け画面を、ペトロは偶然見てしまった。
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思い返して少し頬を赤くしていると、後ろから頭を触られている感触がした。
「へっ!?」
びっくりして振り向くと、大型犬がペトロの髪に鼻先を近付けていた。飼い主の女性は「ごめんなさい」と一言謝罪して、犬のリードを引っ張って行った。
昨夜のことを思い返している最中で、ペトロはちょっとだけ動揺してしまった。
ユダがスマホの待ち受け画面にしていたのは、ヤコブの撮影に付いて行った時に撮ってもらった、あの写真だった。
「恥ずかしいって言ったのに……」
(何で、あれを待ち受けにしてるんだよ)
写真を見せた時に、確かにユダは「素敵だ」「キレイだ」と言っていたが……。
思い出したペトロは、またこそばゆくなる。
(待ち受けにしたのは謎だけど。ユダも、悪いやつじゃないよな。優しいし、いつも微笑み掛けてくれて、オレの心を解そうとしてくれてる気がする。連れて帰ってくれた時も、やけに安心できた気がするし……)
最初は信用していいのかと疑っていたペトロだが、リーダーだけあって、一番頼りにできるかもと認識を変えていた。
(おかげでちょっと自信付いたし、これからも使徒として頑張ろう。強くいるためにも)
「そういえば。いつの間に怪我したんだろ」
ペトロは右腕の袖を捲くった。
今朝シャワーをした時に気付いたのだが、前腕の裏側に、薄っすらといくつか赤い線が浮いていた。




