海と洋紅色
革張りのソファーに座り込み、僕は頭を抱えていた。末摘さんと対面してから、数分後のことである。
お冷を手にとった浦内さんも、薄暗い店内を見渡すと、気の進まない様子で、口をつけずにグラスをテーブルに戻す。
一人はしゃいでいるのは叙奏さんで、なかなか減らないグラスの水を、やたらに継ぎ足して周り、
「そして、その時に見た海の、艶かしい洋紅色に惹かれて、お店の名前をO・カーマインにしたんですよ」
O・カーマイン。それがこのスナックの名前である。海と洋紅色の名の通り、店内は赤と青を基調とした室内装飾がいたるところに施され、どことなく大人の雰囲気が漂っていて、小胆な中学男児には、身の置き場のないように感じられる。
けれども、この店の何よりの特徴は、アダルトに飾り付けられた内外ではなく、そのホステスにあるのである。
それをこの場で明け透けに言うのは避けるけれども、末摘さんの真っ赤な口は、口紅を塗りすぎたことによるもの、という事実や、叙奏さんの拠ん所なき秘密、そして僕の能力を信用するのならば、「O・カーマイン」という店名。これだけのことが重なれば、いくら一介の阿呆学生といえど、この店がどういった客層を対象にしているかの見当くらいは着く。
末摘さんがその巨躯を揺すりながら我々の座るテーブルにグラスを置いて、「どうぞごゆっくり」と、音の出るほどの勢いでウィンクをしたあたりから、胸の焼け焦がれるほどに自宅の寝室が恋しくなってはいたが、しかし僕に課された確認の使命は、必ず果たさなければならぬ。
何といっても、緋色院さんに一矢報いるまたとないチャンスなのである。この任務を完遂した暁には、如何に悪逆非道無法千万の彼女といえど、その心に信頼の放つ美しき輝きを受け、今までの行いを深く恥じ入り、相擁する我々に歩み寄りて「真実とは、決して空虚な妄想ではなかった」と改心し物語は大団円を迎えるであろう。
からん、と涼しげな音がして、我に帰ると、浦内さんがグラスを再び机に戻すところであった。
いつの間にか、中は氷だけになっている。
「つまり、末摘さんのピアノの他にも、ドラムとベースと、それからサックスと料理を教えいただけるのだな」
「ええ、体が空いている時間だけですけど」
軽く息を吐くと、腰掛けているせいで床から浮いている両足をぱたぱたと揺らし、浦内さんは笑顔を浮かべた。
「これであの緋色院にも、ようやく一泡吹かせてやることができるのう、公太郎」
「にしても、ひっどいのねえ、その子!」
カウンター席に寄りかかり、毛脛を惜しげもなく晒しながら、末摘さんは奮然と鼻を鳴らした。叙奏さん曰く、「うちのお店の看板娘」たる彼女は、鬱憤を晴らそうと、鬼気迫る表情でグラスに入っている氷を、次々と噛み砕いてゆく。
「自分勝手にも程があるわよ。そういう子、あたし大嫌いだわ」
そう言って、残った氷をざらざらと口の中に流し込み、一噛みですべて粉砕すると、やにわに彼女は席を立ち、隅の方でお冷を嘗めていた僕の肩をむんずと掴むと、ぐいと顔を寄せた。
「公太郎君だったかしら、あなた、ピアノ弾けるんでしょう」
唐突にそう聞かれ、僕は慌てて首を縦に振った。生暖かい鼻息のかかる様な距離で、鋭い眼光に射られながら詰問されたら、誰だって肯定するしかないだろうが、しかし僕がピアノを弾ける、というのは、まんざら嘘というわけでもないのである。
実際、小学一年生の頃から、受験体制に入る五年生の後半まで、母の強い意向により、僕は個人営業のピアノ教室に通っていたのである。
そこで「エリーゼのために」をはじめ、「月の光」「聖者の行進」「ゴリーウォーグのケークウォーグ」「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」などを次々と習熟し、ついには「幻想即興曲」を涼しい顔で弾ける程に成長できれば、生っ白い学徒の僕にだって、「ピアノを習ったおかげで、みるみるうちに筋肉がつき、顔もすっきりしてきて、ついに彼女までモノにすることができました!ピアノには本当に感謝しています!」と心からの笑顔で言うことも出来ようが、当時も今も、決定的に集中力というものにかける男が、そんなスター街道を歩けるはずもなく、結局今の僕に残ったピアノの腕前は、精々「ねこふんじゃった」をやたらに早く弾ける程度の、甚だ情けないものであった。
そういった諸々の事情を込めた僕の頷きに、末摘さんはにんまりと笑って、なんども肩を叩いた。
今にも骨が砕け散るのではないかと、やんわりその手を振りほどいても、彼女は少しでも距離が開くたびに、僕を引きずり寄せて離そうとしない。
「まあまあ、お姉さんに任せなさいよ。あなた、相当彼女に苦労させられてるらしいじゃない。見返したいでしょう、ぎゃふんと言わせたいでしょう、いいわ、あたしが徹底的に鍛えてあげる。なによう、そんなに縮こまって遠慮しなくったっていいじゃない、どうしたのよ、脱臼でもしたみたいに肩なんか抑えちゃって」
翌日、ようやく痛みの収まってきた肩を、狙いすましたかのように殴打され、恐る恐る振り返ると、案の定緋色院さんが立っていた。
先程のHRで、「晩空君ふりふりメイド服乱舞計画」を潰されたにも関わらず、妙に上機嫌である。
「主人君、意外とやるじゃない。あなたから、あんな水際立った名案が出るなんて、思ってもみなかったわ」
「そりゃあどうも」
格好だけは一流の投手のごとく肩に手を当てながら、僕はひっそりと下卑た笑みを浮かべた。
今に見ていろ、末摘さんによる修行を終えて、僕がいっぱしのピアノ弾きになった時が楽しみだ、と考えたあたりで、なにか重大な見落としをしているような感覚に陥った。ちょうど、社会の窓を全開にしていたことに気付いた時と同じそれである。
怪訝な顔をする僕を気にも留めず、彼女はいつもの笑みを顔に貼り付ける。
「とにかく、私がメインボーカルになったからには、しっかり働いてもらうからね。ピアノもほかの楽器も、いわば私を引き立てるお飾りなんだから、悪目立ちしたら、主人くんならどうなるか、わかるでしょう?」
様々な演奏者を敵に回すような彼女の発言に言い返す気力もなく、僕は只立ちすくんでいた。
自らがバンドメンバーの一人に数えられていて、どうしてボーカルに目にもの見せてやれよう。
我が身の阿呆さに目眩がして、放課後の教室に座り込み、絶望のあまり僕は危うく泣きかけた。
斜陽が生臭く赤い、秋口の出来事である。




