獄卒
完全な暗闇というものは、案外有機的なもので、これは周囲を畑で囲まれた中に、一本足で立っているバス停と電灯を想像してもらうと分かりやすいかと思う。
電球が古くなっているのか、あるいは虫が度々特攻を仕掛けるせいか、ちらちらと明滅を繰り返すそれが、隙あらば飛び掛ろうとする夜陰と電灯との攻防に見えないだろうか。
最も、僕は丑三つ時に御不浄へ行きたくなったとしても、夜が明けるまでは、指一本たりとも布団から出さず、二つの原因によってぷるぷる震えたまま日の出を待つほどの臆病者であるから、あるいはこの妄想も、僕の怯弱な心からでたものかもしれない。
とにかく、僕にとって土井中の暗闇は有機的なもので、相対的に電灯なんかは、何か冷たい感じのするものだったのである。
しかし、この解釈にも例外がひとつあって、それは駅から人気のない山の手の方へ、十分ほど歩いたところにある、馬鹿に派手なネオンを掲げた店の看板であった。
実に悪趣味な色で縁どられたこの店には、流石の暗闇も手が出せないようで、その周辺はやたらに明るい。
「電気代だって馬鹿にならないのに」
駅へと向かう道すがら、叙奏さんは口を尖らせてそう言った。「もっと節約しないと、っていつも言っているんですけど」
その店こそが彼女の実家なのである。そしてそこに、料理と音楽の才を持った人がいるのだという。
会議の場におけるドラマチックな発言の後、興奮冷めやまぬ教室から「とにかく一度確認したい」という意見が飛び出し、ともすればその場にいる全員で彼女の生家に押しかけようとするのを、浦内さんがどうにか押しとどめ、代替え案としてひねり出したのが、代表者選出という選択肢であった。
発言者たる浦内さんと叙奏さんに加え、同じグループにいたというで組み込まれた僕という三人組で、叙奏さんの実家に向かう最中、どうしても気になっていたことがあって、僕は先を歩く二人に声をかけた。
「結局、浦内さんは、いつから叙奏さんの」
直截に訊くのもためらわれて、適当にお茶を濁す。「あれを知っていたのさ」
「中学に入る少し前じゃな」
脇の畑から飛び出してきた虫を避けようと、彼女は小さく跳ねた。
「わらわの家は古くからここに住んでいるから、越してきた人がわらわの親に挨拶をすることがあっての。お前の親御さんもちゃんと来たから、そんな不安げな顔をするな」
それを聞いて、僕は胸を撫で下ろした。普段は良き父親ではあるのだけれど、こと礼節に関して、父さんは妙に頼りないきらいがある。
「四月に入る少し前に、お母さんとふたりで浦内さんのお寺を訪ねたんです。その時は、まだ」
口ごもる彼女にかける言葉が見つからず、我々はしばらく無言のまま踏み固められた道を歩いた。なんてうかつな質問をしてしまったのかと、僕が下をむいて後悔の腹痛に苦しんでいると、視界に二人分の靴が映った。
慌てて顔を上げると、けばけばしく飾り立てられた楼閣が、のっぺりと立ちふさがっている。極彩色に彩られたネオン看板に、僕は目を傷めて、何度も瞬きをした。
「まだ開店時間じゃあないから、表玄関は開いてないんです」
こっちに裏口が、と叙奏さんが言いかけたところで、やにわに開かないはずの扉が、轟音と共に開け放たれ、その内側から、何か巨大なものが、ぬうっと顔を突き出した。
失礼ながら、僕は現れたそれを、瞬間的に悪鬼か何かの類だと判断した。
というのも、大木の幹が如き腕を脇に吊り下げた、二メートルを優に超える巨躯の上には、赤銅色の顔がてらてらと油光りしていて、地獄の焔を思わせる真っ赤な口は、耳元までかっと開かれた石榴口。その上頭部には二本の突起が頭皮を突き破るかのように突き出ていたのである。
獄卒はぎょろりと辺りを睥睨すると、青ざめた男子学生など目にも入らぬ様子で、叙奏さんを目に留めるなり、節くれだった腕で、彼女のか弱い肩を鷲掴みし、そのまま一飲みにしてしまうかのように、ぐわりと口を開いた。
「まあまあまあッ、カオリちゃん、お久しぶりねえ!あたしのこと、ちゃんと覚えてたかしらん。」
「もちろんですよ、末摘さん。いつこちらにご到着を?」
「今日のお昼についたの。やっぱり本店は良いわねえ、どこもかしこも緑がいっぱいで」
そう言って駅の方を見渡すジェスチャーをしたあたりで、ようやく叙奏さんの後ろにへたりこんでいる二人を見つけたらしく、あっという間もなく僕と浦内さんは彼女に肩を掴まれていた。
「あらあ、もしかしてカオリちゃんのお友達?」
ええ、はぁ、と愚にもつかない返事をすると、末摘さんは再び大きく口を開いた。どうやら微笑んだらしい。
「そうなの、仲良くしてあげてね。カオリちゃん、良い子なのに引っ込み思案だから、いっつも損な役回りばっかりで」
慌てた様子で僕と末摘さんの間に割り込むと、叙奏さんは浦内さんの方に向き直った。
「ええと、主人君、浦内さん。この人が、お料理と楽器の――ピアノのノウハウを教えてくれる、末摘花子さんです」




