牧人の如く
事の起こりは、六限目のHRであった。文化祭の出し物を決める必要があったのである。
文化祭とは言っても、全員合わせて三桁の四半分にすら足りない人数で催すものだから、規模も大分小さめで、文化の日の正午から六時までが、この行事の全てである。
前の学校では定番の縁日もどきをやったりして、小豆を小皿から小皿へ箸で移すという、ストレスフルなゲームの説明係を任されたものだが、しかし生徒全員で一つの催し物に取り組むとなると、この学校で、縁日やお化け屋敷なんかは殆ど出来ないと言っていいだろう。
クラスの意見もだいたい同じようで、皆真剣な面持ちで考えてはいるが、中々良い案は出ない。
どうしたものかと呻吟していると、ぴっと音のするような勢いで、緋色院さんが手を挙げた。
「メイド喫茶をやりましょう」
甚だ失礼ながら、問題外じゃあないかと思った。
そういった趣向に、まだ理解のある東京とかの文化祭でやるのならまだしも、未だに教室どころか職員室にすらクーラー一つ付かないこの土井中に、そういう催しはあまりにも似合わない。
だがこれは体の良い建前で、本音を言えば、僕はコスプレ喫茶とかそういうものが、どうにも苦手なのである。
ウェイターさんは自分が本物のメイドでないことを知っているし、お客さんの方も敢えて騙されて演技をしている。双方が納得した上での、高尚な大人のごっこ遊びだということは理解しているのだが、いざ空想をぽんと現実に放られると、どうにも馴染めず、自分がいつも以上に、酷く野暮な男に見えて、恥ずかしくなるのである。
そんな理由があったから、僕は「趣味がすぎるぜ」と笑いながら言うべく腰を浮かせかけ、そしてはたと気付いた。
クラスの雰囲気が重い。どういうわけか、皆一様に「メイド喫茶か」と呟いて下を向き、芽河さんですら黒板に「メイド喫茶」と書き込んでしまうと、次の意見を訊こうともせずうつむいている。
「あの、流石にメイド喫茶ってのはちょっと」
恐る恐る手を挙げて発言する。「在鍛理には似合わないんじゃあないかな」
彼女は何も言わず、ただじっとこちらを見つめて、それからにっこりと笑った。
途端、自分の体が冗談でなく硬直してゆく。必死に口を動かしても、かすれた声しか出ない。蛇に睨まれた蛙の心情を、僕は初めて味わった。
その様子を楽しむように、彼女はゆっくりと口を開く。
「喫茶のメニューには、土井中産のお野菜を使わせてもらうつもりなの、地産地消って奴ね。農家の多い土井中には、とっても似合う催しだと、私は思うわ。そもそも、学校側が文化祭を通して私たちに学んで欲しいものというのは、人との協力にほかならないわ。食事という人間の生活に最も身近な活動を通して、地元の皆さんとの交流をはかるこの催しは、道徳教育的にも素敵なイベントだと思うのだけれど、主人君はどうかしらん」
ぐうの音も出なかった。冷静に考えれば、今の発言のどこにも、そのイベントがメイド喫茶である必要性はなかったのだが、彼女の醸し出す雰囲気と、何よりあの笑顔に、僕は封殺されてしまったのである。
彼女の「恐怖の象徴」という評判を、僕はその時まで、本質はついているけれども、多大に誇張された表現なのだと思っていた。
とんでもない。緋色院さんは、嘘偽りのない天然物の恐怖そのものであった。
けれども、メイド喫茶は御免だ。ここまで来ると、好き嫌いよりも意地の問題である。なけなしの勇気を振り絞って、廻らぬ舌に鞭を打つ。
そして僕は、トマス・ジェファソンもかくやというべき大演説を試みたのである。
メイドという二次元の象徴たる趣向を三次元上に再現する際のメリット、デメリット、そこで行われる高度な駆け引き、双方合意の上で演じられる偽りのコミュニケート等々。なるべく滔々と語ったつもりである。
しかし、眉ひとつ動かさない緋色院さんの笑顔、徐々に失望へと変化してゆくクラスの雰囲気と眼差し、爆睡する副担任丘品博士先生の鼾などの様々な重圧によって、僕の論調はみるみる内に弱腰になり、例え意見一つ表明するにも、「僕はこう思うのだけれども、これは個人の見解でクラスの総意とは異なるし、なんだか間違っているような気もするけど、僕自身はまあこう思っていないこともないかもしれないから、どうだろうか」と、十重二十重に打ち消しをかけてしまうような有様であった。
彼女はどのように言われても、ただ笑顔で「そうね」と言うばかりである。
ついに僕は音を上げて、「ああ、メイド喫茶は利口です、問題点なんてありゃあしないんだ」と嫌味なことを言うと、足元に視線を落とし瞬時ためらい、
「ただ、僕に情けをかけたいつもりなら、出し物の決定までに一日の日限を与えて下さい。明日の六限目は確か総合だったはずです。一日のうちに、僕は家で名案を思いつき、必ず、ここへ帰ってきます」
「ばかな」と緋色院さんは澄んだ声でころころと笑った。
「とんでもない嘘をつくのね。逃がした小鳥が帰ってくるというのかしら」
「そうです。帰ってくるのです」学生である以上、当然である。しかし、僕は必死に言い張った。
「僕は約束を守ります。僕を、一日だけ許して下さい。家で考えりゃあ、なんか思いつくはずなんだ。そんなに僕を信じられないのならば、よろしい、このクラスに」
そこまで言って、僕はふと考え込んだ。
これまで邪智暴虐の王に友情の清さ貴さを説く牧人の如く熱弁を振るってきたが、さて、僕の束の間の自由のために、自ら進んで絞首台に上るというような友人が、果たしてこのクラスにいるのか。僕はそっと辺りを見回した。
誰とも目が合わなかった。
考えてみれば当然の反応である。けれども、それが僕に止めを刺した。
急速に気力を失い、よろめいて椅子に座り込みそうになる僕に、彼女は硬直した笑顔のまま声をかける。
「そう簡単に諦めるものじゃあないわ。あなた今、身代わりを出そうとしたのよね」
「まあ、そうです」改めて考えると、よくよく自分勝手な要求である。僕は己の身勝手さを思って、より一層自虐的な気持ちになった。
「でも、もういい。身代わりになってくれ、なんて提案、思い上がりもいいところだ」
「私は良い考えだと思うわ。当日になって、仮病なんか使われたりしたら、癪ですもの」
強烈に嫌な予感がして、僕は弾かれたように椅子から立ち上がったが、時既に遅く、彼女は氷の微笑を浮かべて、こう続けた。
「あなたが身代わりよ、晩空君。もし主人くんが妙案を思いつけば良し、彼がばっくれたら、その時は」
槍で突くように晩空君の鼻先を指差す。
「文化祭当日、ふりふりのメイド服で、萌え萌えな曲をバックに踊っていただくわ」




