クランクアップ
かくして緋色院さん主導の真土井中仮面がクランクインしたのである。
何故もう終えたものを、設定を一新したからといって、取り直す必要があるのか、という問いに対して、彼女はいつもの笑顔ではなく「個人的な趣味」という、より暴力的な一言でもってこれを鎮圧した。
台本は役名やセリフの他、後半の展開も大きく変更されていて、ヒーローと怪人の邂逅の後、ヒーローの放った必殺技は怪人の不機嫌な反射結界(原文ママ)によって弾かれてしまう。唯一の必殺技を封じられ、成すすべもなく立ち尽くす彼のもとに一人の美女が現れ、やけに壮大かつ迂遠に世界の危機と彼の命運、そして父のことを話し出す。自らの中に眠るという偉大なるヒーローの血を自覚した彼は覚醒、その場で思いついた必殺技を繰り出し逆転勝利する。というのが、新しいストーリーの大まかな流れであった。
撮影は実にスムーズに進んだ。
つまり、脚本家たる緋色院さんの複雑怪奇な設定の数々に対して、出演者たちが決行したストライキの解決にあたって彼女が行なった無言の笑顔による交渉や、緋色院監督の執拗なリテイクで疲労困憊し次々と俳優たちが倒れてゆくといったアクシデントを除けば、何一つ問題なく撮影が済んだということである。
たった二パターンしかセリフのない僕ですら喉を潰した地獄の現場にて、それでも一度だけその中に仏を見たような思いをした出来事があった。
謎の美女が仮面君に、彼の父親のことを語るシーンの、十六回目のリテイクにて、既に「めまいがする」「頭痛が痛い」などの哀れなうわごとを口走っていた真風さんが、ついに盛大に舌を噛んで転倒。彼女の回復を待つ間、しばしの休憩時間となった際に、僕は思い切って「なぜここまで我々を追い込むのか」と緋色院さんに尋ねたのである。
既にいっぱしの鬼監督となっていた緋色院さんの表情が、瞬間女学生のものに戻って、どこか遠くを見つめながら、彼女はゆっくりと答えた。
「皆の実力を、魅力を、全部カメラの前に引き出してみたいのよ。そのためなら、私、悪魔にだってなってみせる」
疲労の極地にあった僕の頭には「既に悪魔みたいなものじゃあないか」というような過激な言葉さえ浮かんだが、しかし彼女は「けど」と口ごもると、僕の目をじっと見て、
「そのせいで嫌われるのは、自業自得だけど、少しだけ寂しい気もするの」
その時に浮かんだ物悲しげ彼女の表情に、かねてから存在しないと考えられていた緋色院さんの人間味を見た気がして、僕はただ無性に嬉しくなったのである。
続けて彼女は、
「まぁでも、真のヒロインを引き立てるためには仕方のないことよね、悲劇のヒロインってのも、悪くわないもんねえ」
あくまでも自己中心的なその一言で、僕の心は蜘蛛の糸を絶たれたカンダタの如く急降下し、肉体は再び地獄に引きずり戻されたのである。
その後のことを思い出そうとすると、必ず酷い頭痛と吐き気をもよおすので、僕はクランクアップのことを未だに記憶の底に封印してある。
翌朝の関係者たちの体調は、惨憺たるものであった。
戦闘員を演じた晩空君は筋肉痛で脚が上がらず、教室を移動するたびにひどい難儀を強いられていたし、中途にやたらと挿入されるナレーションを担当した芽河さんと、悪の組織のこと、世界の危機のこと、父親のことと、三つの長い説明台詞を計二十六回も復唱する羽目になった真風さんは、共に舌が引きつってしまい三日程まともに話すことができなかった。
仮面君、山都君両名の惨状は筆舌にし難い。二人共登校してくるなり荷物を置いて、ぱたりと机に倒れると、とうとう六時間目の終わりまで微動だにしなかったと言えば、少しはその凄まじさが伝わるだろうか。
撮影係であった弓角君は、四十肩など比較にもならないようなえげつない肩こりを発症し、ペンを一本筆箱から出すのにも、激痛で涙が滲み出るというような実に凄惨な有様であったし、僕ですら喉は枯れ果て、誰かの眼前で腹の底から悪口を言ったとしても、本人には全く聞こえないだろうと言うほどの、か細い声しか出なくなっていた。結局一番被害が少なかったのは、撮影開始直後に体調を崩して、早々に保健室に搬送された葵木さんであった。
そんな中でただ一人、緋色院さんだけが天真爛漫に微笑んで、屍のような状態の僕たちを、放課後の試写会に招待したのである。
プロジェクターのある理科室へと移動する最中に、ようやく歩けるようになった山都君は、ぎくしゃくと足を動かしながら、
「しかし、あれだけ苦労したんだ。さぞかし傑作だろうな」
「そうじゃなかったら、ぼかぁ自分の部屋を隅から隅まで掃除してやるよ」
笑いながら答える仮面君共々、各々奇怪な歩き方で理科室にたどり着くと、皆思い思いの席に座った。
緋色院さんは前に出て一礼すると、天井に収納されていたスクリーンを引き出して、プロジェクターの再生ボタンを押した。
唐突にオープニングが始まり、画面に崩した文字でタイトルが浮かび上がる。
その次にスクリーンに現れたのは、緋色院さんであった。葵木さんが演じる予定だった一般通行人Aの役を、彼女が担当していたからだろう。ややあって場面が切り替わり、縛られた僕と山都君が映る。
しばらく山都君が喋っていると、いきなり映像が切り替わって、再び緋色院さんが画面いっぱいに映る。その内に仮面君までもが喋りだしたが、スクリーンには彼女が映るばかりで、何故かカメラに向かってポーズなんかをとっている。
やにわにひどい頭痛を感じて、僕は緋色院さんに再生をやめるよう訴えたが、かすれた声しか出ない上に、芽河さんのナレーションにかき消されて、彼女には全く届かなかった。
相変わらず画面には彼女が居座ったままで、時折思い出したかのように他の出演者が映る。ほとんどノイズのような扱いである。
我々が無言のまま、十分経ち、二十分経ち、ヒーローに助けてもらった僕の感謝の言葉をバックに緋色院さんが可憐なポーズを決めたところで、とうとうスタッフロールが流れ始めた。
主演の文字がゆっくりとせり上がってきて、その数倍もの大きさで、緋色院詩織という名前が、派手に縁どられてて上昇してくる。
ちん、と鼻をかむ音がして、振り向けば緋色院さんが涙目で画面を見つめている。驚いたことに、本心から泣いているようである。
「皆、本当に、本当にありがとう」
洒落た刺繍の入ったハンカチを握り締め、目頭を拭いながら、彼女は感極まった様子で、我々に笑いかけた。
「皆のおかげで、最高傑作が出来上がったわ。本当にありがとう!」
次の日、僕と葵木さん以外の関係者は、皆学校を休んだ。
担任の先生は、欠席した生徒たちに今日の配布物を届ける人物を募集し、僕は仮面君の担当になった。
山都君の分のプリントを持った安藤さんと二人で、僕はアパートに向かった。
一階には、埃一つなかった。




