筋金入りの横着者
山都君が体を揺すると、口元の涎を拭い、メットを深く被り直して、彼は間延びした声で尋ねた。
「一体どうしたのさ」
「人質が見つかったんだ」
人質になりました、どうぞよろしく、と極めて妙な理由で頭を下げると、仮面君は人の良さそうな笑みを浮かべて手を差し出した。
「悪いね、こっちの都合で変なことに巻き込んじゃって」
握手をした手がなんだか濡れているような気がして、ズボンの裾で拭いているあいだに、二人は当日の予定を確認している。
「じゃあ今週の日曜に駅の近くの原っぱで、十時集合だからな」
「遠いんだよなあ、もう少しアパートの近くにできないか」
彼も山都君と同じアパートに住んでいるのである。一階の奥の部屋がそうらしいが、山都君は一度も彼の部屋の中を見たことがないという。
というのも、辺りにゴミが散乱していて、とても立ち入ることができないのである。
もちろん、原因は仮面君である。
彼は筋金入りの横着者で、服は色の薄くなった赤ジャージの他には、ヒーロースーツしか持っておらず、湯を沸かすことすら面倒くさがるせいで、食事は基本生野菜の丸かじりだけ、ゴミを溜め、掃除はせず、彼の部屋の隅に積み重ねられたゴミの地層からは新たな生命が誕生しているともっぱらの噂である。
そのくせ無類の風呂好きで、駅前のスーパー銭湯の、目もくらむような熱い湯にゆったりと浸かって、一時間でも二時間でも平然とふやけている。
その老成ぶりからか、あるいはヒーローという身分故か、同じく風呂好きのご老人方に大変可愛がられていて、今回の人質も、本来ならば番台の親爺さんの息子がやるはずだったのである。
「商店街の近くとかはどうだい、息子さんにも見せてあげたいし、なにより僕が楽だ」
「文句を言うなよ、こっちにだって色々都合があんだから」
なおももごもご言う彼を無視して、山都君は僕に当日の予定のことを話し始めた。
朝十時に現地集合で、午前中に最終リハーサルを行ってから極東第六支部秘密基地内で昼食を摂る。
一時半に再度現場入りして、三十分後に本番である。
終了は三時を予定しているが、かなり長めに見積もっているから、実際には三十分もかからないだろうと彼は言う。
僕の役どころは「銭湯からの帰りに父親とはぐれて悪の組織に捕まった少年」というもので、市としては「季節の関係上これから増えるであろう銭湯の利用者に注意を喚起する」という目的があるそうだ。
セリフらしいセリフもなく、後ろ手に縛られたままヒーローと怪人の戦いを見守り、終わったら礼を言って縄を解いてもらうだけの簡単な役である。
以上のことを書いた紙を僕に渡して、山都君は莞爾と笑った。
「まあ、気楽にやってくれよ。見学でもしてるつもりでさ」
「なんだったらアドリブを入れたって構わんよ」
ジャージ姿の仮面君はそう言って、ひときわ大きなあくびを一つした。
帰りの会が終わって、さあ帰宅だと鞄を持ち上げたところで、真紅の髪の毛が視界に入り込んできた。
「今週の日曜日が楽しみね」
身の毛もよだつような恐怖というものを、僕はその時心の底から理解した。
じっとりとした汗が吹き出して止まらない。
「何故そのことを」
「あら、本当に何か予定があったのね」笑顔のまま、緋色院さんは口元に手をやった。
「こうも簡単に引っかかってくれると、逆に面白くないものね」
それで、日曜に一体なにがあるのかしら、と言って、彼女はさりげなく僕の筆箱の上に手を置いた。
こうなると、もう逃れる術はない。
観念してヒーローと人質のことを話すと、最後にこう付け加えた。
「今回ばかりは邪魔しないでくれよ。僕に迷惑がかかるのならまだしも、いやそれだって十二分に御免だけれども」とにかく、と話を区切ってから、
「市も関わってる公のイベントなんだから、下手に余計な手出しをしたら、絶対に不味いことになる」
「そんな、私がいつも何らかの行事を邪魔してるみたいな言い方を」
よよ、と泣く素振りをしてみせるが、僕が仏頂面で睨んでいるのがわかると、こほんと一つ咳をして、
「別に、私だって大人が関係してるようなものを邪魔するほど、阿呆じゃないわ」
失礼しちゃう、と言って筆箱を解放すると、緋色院さんは「じゃあ下駄箱の辺りにいるから」と早足に廊下へ歩き去った。
戻って来た筆箱との再会を喜んでいる僕に、つと寄ってきたのは浦内さんである。
去ってゆく緋色院さんの背中を見ながらため息をつくと、こちらに向き直った。
「流石だの、たったひとりで、かの緋色院をいなすとは」
僕は拍子抜けして、だらしなく「はあ」と応えた。
転校してからこのかた、事あるごとに彼女に叱られていたので、声をかけられた時にも、今回も何かやらかしてしまったのだろうかと身構えていたのである。
「そんなに凄いことはしちゃいないよ。ただ、緋色院さんの機嫌が良い時を見計らって、なあなあに誤魔化してるだけさ」
「だが、今までそんなことが出来る者は、この土井中にはいなかったのだ。誇っても良いことだと思うぞ」
そう言われてもなんだか素直に喜べず、僕はただ首をかしげていた。




