左足小指
のっけから少々失礼な物言いですが、とても珍しいことに、その日の芽河さんは朝から上機嫌でした。
クラス、図書、文化祭実行委員など、いくつもの委員会のリーダーを兼任する彼女は、きっといつもクラスの皆のことを考えているのでしょう。
難しい問題ですから、大抵浮かない顔をして登校してくるのです。
けれども今日は、花の咲くような笑顔で、歌さえ口ずさみながら廊下を歩いてくるのです。
友達が喜んでいるのを見ると、私まもなんだか無性に嬉しくなって、「おおブレネリ」などを鼻ずさみながら、
「何か良いことでもあったのですか」
「朝の星座占いで一位になったの!」
言ってから、さっと顔を赤くして、何度か空咳をすると、「ちょっと子供っぽいかしら」と呟きました。
「そんなことはありません。私も一位になったときは、つい嬉しくなりますから」
この前もトップだったのですけど、と前置きをして、私は少し前のことを思い出しながら話しました。
以前、家を出る前に見たテレビの占いで、自分の星座が一位だった時に、私はなくしたと思っていたヘアピンを見つけ、読みたかった本が図書室に入庫し、晩御飯に好物が出るという素晴らしい奇跡を体験したのです。
「おまけに、その日は一回も保険室のドアに触れることなく家に帰れたのです」私は説得力が出るように、顔を寄せて力説しました。
「あの占いは当たります」
再び口の端が上がってゆくのをぐっと抑えると、芽河さんは努めて平静を装って、
「まぁ、まるっきり信じる訳じゃあないけど、一応頭の隅に置いておくわ」
「ついにオカルトに目覚めたようだね、芽河氏」
振り返ると、腕組みをして机に腰掛けていた藤蓑君が、ひょいと飛び降りて、こちらを見つめています。
「占い、すなわちオカルト。我オカ研はいつだって新入部員募集中ですぞ」
「結構です」すっかりいつもの表情に戻ってしまった芽河さんは、そう言って鞄の整理を始めました。
「待ちたまえよ、オカルトを学べば、その超自然的な力で、気になるあの子の心を覗くことだって可能なのだよ」
瞬きする程の間、芽河さんの手が止まって、けれども「馬鹿じゃないの」というと、一時間目の準備を始めます。
「そんなことまで出来るのですか」
「もちろんできるとも。例えば、そうだな、弓角氏!」
なぁに、と女の子のような声で応えて弓角君が来ると、藤蓑くんは袂から手帳を出して、
「え、君の前にウサギが一匹いる。君がウサギを持ち上げると、そのウサギの体の一部に星印が付いていたんだが、さて、その部位はどこだい」
「心理テストじゃあないの」という芽河さんの声を無視して、藤蓑君は「ほれ、早くせんと」と急かします。
首をかしげてちょっと考えてから、弓角君は自信のない問題に答える時のようにおずおずと「髪、というか、頭の毛かな」と言いました。
「ふふん、髪か」藤蓑君はやけに嬉しそうです。「まぁ、とりたてて変態的という訳でもないな」
「それで何がわかるって言うのよ」
なぜかイライラしている様子で、芽河さんは心理テストの結果を尋ねます。「どうせ下らないんだから、さっさと言いなさい」
「待て待て、この手帳に結果が書いてあるんだ、引っ張るのはやめろ」
藤蓑君はなんとか手帳を取り返すと、きょとんとしている弓角君の前で、もったいつけてその結果を読み上げ始めました。
「この心理テストでは、ウサギは恋愛の象徴としての異性を表し、星印は応答者の第一趣向を……」目を白黒させている弓角くんを見ると、ふうと息を吐いて、「まぁ早い話が、弓角氏は髪フェチだということさ」
「フェチ?」
「要するに、弓角氏は女人を見る際、毛髪に一番魅力を感じる傾向があるのだよ」
そこまで聞くと、弓角君はころころと笑いだしました。
「いくらボクでも、髪の毛だけで女の人を好きになったりはしないよ」
「まぁ当然でしょうね」そう言いながら、芽河さんは電光石火の早業でヘアブラシを鞄の中に押し込みました。
「でも、面白いね、そういうの」目を輝かせて、身を乗り出すと、
「ねぇ、この質問は他の人にも出したのかい、例えば」
「主人君とか」
ふわりと甘い匂いがしたかと思うと、いつの間にか詩織ちゃんが私たちの中心に陣取っていました。ぎょっとして身を引く藤蓑くんに詰め寄ると、素早い手つきで手帳を取り上げて、
「なんだ、ほかは全然面白くないじゃない」
まぁいいわ、と言うと、詩織ちゃんはつかつかと主人君の机に向かいます。
むっとした表情で手帳をひったくると、藤蓑君は苦々しげな笑みを浮かべて、「もし主人氏が何らかの変態的性的趣向の持ち主だったらどうする」と茶化しました。
「昨今の主人公には変態も少なくないのよ」意に介さない様子で、そっけなく詩織ちゃんは答えます。
「ロリコンなんかもいるし、脚フェチくらいなら、私、別段驚きもしないわ」
思えば、起き抜けの目をこすりながら見たあの朝の占いが、そもそもの原因だったのかもしれない。
「前にもこんなことがあったんだ」と左足をさすりながら、僕は晩空君にその日のことを話しだした。
何時だったか、朝の星座占いが最下位だった日に、僕は常用していたシャープペンシルを紛失し、財布の小銭をぶちまけ、夕食のサラダに青虫が混入するという憂き目に逢ったことがあるのである。
「おまけに緋色院さんにいちゃもんを付けられて、その日一日散々引っ張り回されたんだ」僕はその時の苦労を思い出して、低い声で力説した。
「あの占いは当たる」
「いろいろ大変だな、お前も」晩空君もつられて低い声になると、しげしげと僕の左足を眺めた。
「それで、今朝は左足をどうしたんだ」
「タンスの角に小指をぶつけてね」
脈打つ度にじくじく痛むせいで、今の僕の脳内では「左足小指」という単語がひっきりなしに飛び交っている。
上履きを脱いで、少し血の滲んだ靴下を見ていると、やにわにそこを蹴り飛ばされて、僕は再び悶絶し始めた。
「あら、失礼」
全く悪びれる様子のない声が聞こえて、痛みから気を逸らすために声の主を見れば、やっぱり緋色院さんがそこにいた。
「そろそろ来ると思っていたよ」それだけ喉の奥から絞り出すと、再び小指との格闘が始まる。
「以心伝心かしらん」上品に笑うと、彼女は唐突に兎がどうの、星印がどうのと喋りだした。
どうやら質問のようだが、痛みのせいで内容が全く頭に入ってこない。苦心して靴下を脱いで患部を冷やしていると、さぁ答えなさいと彼女が催促する。
よっぽど「知るか、そんなもん」と言ってやろうかと思ったけれども、後々の学園生活のことを思うと、そんな蛮行は当然出来る訳もなく、かろうじて脳に引っかかっていた「部位」「体」という単語から、適当に質問を推測すると、僕はほとんど反射的に答えた。
それからしばらくの間、僕は「変態足の小指フェチ男」の称号を欲しいがままにして、女子の皆様のみならず、男子からも一目置かれる、というより一歩引いて見られるようになり、自らの学園生活に要らぬ恥の上塗りをした。
だが、悲しいかな、こんな事件は日常茶飯事である。緋色院さんに関わる人々は皆、このように不必要な汚辱を受けることが多々あったのである。全く無意味な苦汁を舐めさせられながら、けれども「おのれ緋色院」とか「この恨み、はらさでおくべきか」と内心復讐の炎を煌々と燃やし、反旗を翻すような生徒は一人もいなかった。
異常性にかけては引けを取らない院部君をして「恐怖の象徴」と言わしめた彼女の実力の一端を僕が経験したのは、それからしばらく後の事で、この事件の時点では、僕はまだ「いつかはぎゃふんと言わせてやる」という甘い甘い野望を抱いていたのである。
蝉の死骸をよく見かけるようになった、夏の終わりの出来事であった。




