愚かなるホモ・サピエンスの末裔
「緋色院さん」
思わず声が出てしまい、慌てて口をふさいだが、幸い院部君たちには気付かれなかった。眼前の人物をまじまじと見つめると、僕は 改めて声をひそめた。
「一体どうしてここが」
「あんまり私を舐めないことね」
彼女はさも当然のことのような顔をして、のぞきスポットの右半分に腰を下ろしながら、小声でしゃべりだした。
「主人君、朝から院部君のことを見てたでしょう。何かあるのかなと思ってたらあの騒ぎよ、事情を知ってるだろうってあなたを見たら、真っ青になって震えてるじゃない。こりゃあただの告白じゃあないなって確信したわ」
僕は内心舌を巻いて、緋色院さんの横顔を見つめていた。
こと色恋沙汰に関して、彼女の観察眼は恐ろしい。
「おまけに帰り道。考え事してて肥溜めに気付かないとまで来たら、主人君が女嫌いで彼に嫉妬でもしてない限り、院部君の告白の方に問題があるってのは自明の理。主人君はそれに絶対関わってるんだから、あなたの後をつけたらいいと考えたわけ」
どうせご神木前集合ってのも嘘なんでしょう、と締めた彼女の言葉に、僕はただただ頷くまかりであった。
夏河岸さんたちがまだ話し出さないのを確認すると、僕はこれまでの経緯をなるべく簡潔に説明した。
最後に、何とかして彼の体面を傷つけないようにクロロホルムを取り上げることができないだろうか、というと、彼女はいつもの笑顔を浮かべて、僕の服の裾を握った。
「院部君が彼女を襲ってから取り上げましょう。出来るだけヒーローっぽく振舞って、彼を罵倒しなさいな。彼には精々踏み台として頑張ってもらいましょう」
声も出なかった。
ふと気付くと、二人がこちらに背を向けて、何事かを話し出していた。
「でも、下駄箱に手紙が入ってた時は、いっちゃんもびっくりしたよ」
「どうしても衆愚をだまくらかす必要がおありでげしてね」
「そんなに、この場所を教えたくなかったの?」
「おうとも、二人きりでないといかん」
ロマンチックなセリフ、と緋色院さんが皮肉る。確かに、みんなの前で実験はできまい。
ふうん、と呟いて、夏河岸さんが神社の方に目をやる。すると、院部君がゆっくりと彼女の後ろに回り込みだした。
尻ポケットを薬瓶で膨らませて、左手に白いタオルを握っている。
「あ、あ、やばい、はやく取り上げなきゃ」
「落ち着いて、まだ駄目。彼が凶行に及んでからよ」
それを防ごうとして、ここ数日僕は無意味な苦労をしてきたのだ。今更引き下がれるか、とは思ったのだが、さて足が動かない。
いよいよ彼の手が薬瓶を握ったとき、唐突に夏河岸さんが振り返った。
「それで、大事なお話って、なぁに」
「え、あ、いや」
急に声をかけられたせいで、院部君は慌てふためき、薬瓶から手を離した。
僕が「よし」と呟くのと、緋色院さんが舌打ちをするのとは、ほとんど同時であった。
「早くしなさいよ、この辺やぶ蚊が多いんだから」
「誰にも聞かれたくない話があるんでしょう」
「あ、ああ、まあの、ありますよ、話は」何故か急に歯切れが悪くなる。
「話はね。もちろん重要ですがな。当たり前田のなんとやら、ええ、ええ」
誤魔化しが効かなくなってきた様子である。
「どうしたの」
「へえ、ど偉い話さね。え、そも地球温暖化とは、愚かなるホモ・サピエンスの末裔どもが……」
人類規模で重要な話になってきた。
「院部君、もしかして、話を用意してないんじゃあないのかしら」
哀れなほど狼狽する彼を見て、緋色院さんがそう言った。
なるほど、彼の無計画さからすると、十分にありえる話である。
とりあえずクロロホルムが手に入った喜びで、後のことを考えなかったのだろう。
「頼む。このまま重要な話を思いつかず、場が白けてお開きになってくれッ」
すがるような気持ちでそう口にした。
「院部ちゃん、ひょっとして、大事なお話なんてホントはないんじゃないの?」
夏河岸さんはそう言って、ぐっと彼を睨みつけた。
院部君はといえば、もう目も当てられないような消耗ぶりで、触覚もだらりとぶら下がったままである。このままご破産になってくれ、と僕は切に願った。
しばらく睨みつけたままでいると、やがて夏河岸さんの口の端が徐々に上がってきて、ついにはにんまりと笑うと、
「いっちゃんには、全部わかってるんだから」
「は」硬直する院部君と我々に目もくれず、彼女は胸を反らして腰に手を当てた。
「ここにいっちゃんを連れて来るために、わざわざウソをついたんでしょ」
「それだッ」そう叫んでにわかに元気を取り戻すと、院部君は彼女の手を取って、神社の方を眺めさせる。
「そうであるとも、うぬにこの絶景を見せつけんとして、我はすげえ頑張ったのだから」
「やっぱり」無邪気に笑う夏河岸さんは、すっかり夜空に夢中になっている。
「その中でも、特にお見せしやがりたいのがありんす」
彼はやぐらの天辺あたりを差して、さりげなく夏河岸さんの後ろに立った。
「ほれ、あの建築物の上の方をお見上げになって」
どこ、どこ、と身を乗り出す彼女の背後で、院部君は再び尻に手を伸ばした。断っておくが彼女の尻にではない、自分の尻にである。
今度こそ不味い、と緋色院さんを振り払って立ち上がったまでは良かったのだが、長いあいだしゃがんでいた為に足がもつれ、僕は太い木に鼻の頭を嫌というほどぶつけてしまった。
顔を抑えて悶絶していると、やにわに神社の方が騒がしくなった。
ここまで声が聞こえるのだから、なかなかの大騒ぎである。
一体下ではどんな騒ぎが起こっているのだろうか。




