第243話 学内一の嫌われ者で幸せ者。
三限目の鐘が、構内に響く。
少しけだるい午後の空気の中、俺はいつもの席に腰を下ろしていた。
「……さて、と」
目の前には、『魔導工学論(基礎)』とタイトルのついた分厚い教科書。
カバーには淡い紫の文様が浮かんでいて、まるで魔法陣のようだ。
ページをめくると、そこには【次元位相変換装置と共鳴結晶体の応用】とか、なんとも頭が痛くなりそうな単語が並んでいた。
……これ、ほんとに基礎なの?
魔法と機械工学の融合。
言葉にすると聞こえは良いけど、要するに、「魔法で機械を動かす」とか「機械で魔法を安定させる」みたいな、高度すぎるハイブリッド学問だ。
魔法の部分は理解できる。むしろ得意な部類だ。
独学とは言え、数十年間勉強してたからね。
けど、機械工学の方は……『物質毎の固有魔導容量』とか『偏属性振動数制御』とか、聞き慣れない単語ばかりで、正直ついていくのがやっとだった。
「…………」
ふと隣を見れば、ブリジットちゃんが真剣そのものの眼差しでノートを取っていた。
ペンを持つ指先がスッと動くたび、金の髪が軽く揺れる。
背筋はぴんと伸びていて、姿勢がいい。ノートも丁寧に書かれていて、なんというか、いかにも“真面目な優等生”って感じだ。
それでいて、顔立ちは相変わらず天使みたいに可愛い。
たまに前髪を指で払う仕草すら、どうしてこうも絵になるのか。
……くぅ、今日もブリジットちゃんは最高に可愛い。
「……それにしても、難しいなこれ」
小声で呟きながらノートを開き直すと、少し離れた前の席から、ペンの音が聞こえた。
カリカリカリ……
——一条くんだ。
彼もまた、真剣な目で講義に集中している。
身を乗り出すようにしてノートに数式を書き写している姿は、なんというか……高校生というより、大学の研究員みたいだ。
「うーん……頑張ってるなぁ」
彼は、日本に帰るその日までに少しでも異世界の知識を蓄えようとしてる。
真剣な理由があるんだろう。
——もしかしたら、いつか彼が日本に帰った時、『異世界知識で現代無双!異世界のチート技術を駆使して現代日本で成り上がる!』なんてラノベストーリーが現実で始まるかもしれないね。
そんなことを考えながら、今度は教室の隅に視線を向ける。
そこには——ザキさんがいた。
背を丸め、やや眠そうな目をして講義を眺めている。
それでも、俺と目が合うとにっこり笑って、ひらひらと手を振ってくれた。
「……やっぱ、いい人だよな、あの人」
過去に何があったのかは知らない。
けど、少なくとも俺にとっては、編入試験で声をかけてくれた“優しい人”のままだ。それでいい。
——"統覇戦"で戦うことになるかもしれないけど、できれば、彼とは当たりたくないな。
授業が終わり、講義室に開放感のあるざわめきが戻ってくる。
「ふぅ〜〜〜〜っ!!」
隣でブリジットちゃんが思いきり伸びをした。
両腕を高く掲げ、くいっと背中をそらすその姿は、清々しくて……なんか、すごく眩しかった。
「やっとお昼休みだよ〜〜っ!」
彼女はくるりと俺の方を向いて、ぱっと明るい笑顔を浮かべる。
「それじゃ、今日も学食でお昼にしよっか!」
「うん、そうしよっか。……あそこのパスタ、美味しかったもんねぇ。今日は何食べようかな〜」
俺がそう返すと、ブリジットちゃんはふふっと笑って、唇に指を添えながら言った。
「ね〜〜っ!どのメニューも美味しくて目移りしちゃうよね!……あっ、でも、一番美味しいのは——もちろん、アルドくんのお料理だけどねっ!」
その瞬間——
俺の心臓が、ぐわんっと跳ね上がった。
ブリジットちゃんの笑顔。
それは、太陽よりも明るくて、春の風よりもあたたかい。
彼女が俺の料理を好きだって言ってくれることも嬉しいけど、なにより——その言葉に込められた、気持ちが。
「……し、幸せ……」
思わず、ぽつりと口からこぼれていた。
前世じゃ、好きな子と一緒に登下校して、同じ授業受けて、一緒に学食でお昼食べるなんてこと、一度もなかった。
それどころか、スクールカーストのどこにすらいなかった俺が——今、こうして“好きな子と両想いで、楽しいキャンパスライフ”を送ってる。
これが……リア充が見ていた景色ってヤツか……!
俺も遂に来ちまったみたいだぜ……
──『高み』ってヤツに、よ?
「ふふっ……」
「ん? どしたの?」
ブリジットちゃんが思わず、といった様子で笑みを溢す。
でもその直後、俺の視線に気づいたのか、ハッとしたように頬を染めて、視線をそらす。
「あ……えっと……な、なんでもないっ」
「いや、めっちゃ嬉しそうな顔してたよ? なんかいいことあった?」
「えっ!? えっと、あの……その……」
ブリジットちゃんは、もじもじとスカートの端を指でつまんで、小さく、ぽつりと呟いた。
「……前に、この大学通ってた時ね。友達とか、あんまりいなくって……授業も、お昼ごはんも、いつも一人だったの」
その声は、かすかに震えていた。
「でも、今は……その……す、好きな人と一緒に、授業受けたり、お昼食べたりできて……楽しいなって、思ってマシタ……」
赤くなった彼女の頬。伏せられた視線。
——胸が、ぎゅっとなる。
同じこと、考えてくれてたんだ。
心の奥が、じんわりとあたたかくなった。
「……俺も、同じ事思ってた」
まっすぐに言ったその言葉に、彼女は照れくさそうに笑って、小さくうなずいた。
ほんと……この世界、最高かよ。
けれど——それは校舎の外に出た瞬間に、ある種の“現実”として、俺に突きつけられる。
「——っ!?」
俺が扉を開けた瞬間、校舎前の広場にいた生徒たちがビクリと肩を震わせた。
そして——
「し、”銀の新星“だ!!8号館から出てきたぞぉぉぉ!!」
「き、キャーーーーー!!“二股のオロチ”よぉぉ!!」
「逃げろ!!ラグナ殿下に喧嘩売ったヤベー奴だあああああ!!!」
ワァアアアアアアッ!!!!!
あっという間にパニック状態になった学生たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
まるで何かの化け物でも見たかのように。
「……うん。強いて問題点を挙げるとするなら──俺が、全校生徒からめっちゃ嫌われてるってことくらいかな!!ハハッ(裏声)!」
いや、ほんと。
——この異世界キャンパスライフ、まだまだ前途多難みたいね。
◇◆◇
学食までの道が、やけにスムーズだ。
──いや、理由はわかってる。わかりたくないけど、わかってる。
俺が歩くたびに、周囲の学生たちが蜘蛛の子を散らすように離れていく。左右にぱっかり割れた人垣。そこを堂々と、俺とブリジットちゃんは二人で歩いている。
「“モーゼの海割り”って、きっとこんな感じだったんだろうね……」
思わず漏れた独り言は、ブリジットちゃんには聞こえていない。
正確に言えば、“聞こえていないフリ”をしてくれている。
この大学での俺の評判は、端的に言って最悪だ。
男子からは、「あのブリジット・ノエリアをたぶらかした上に、謎の黒ギャルとも関係を持ってるヤツ」として、羨望と嫉妬と怒りと……あらゆる感情をぐちゃ混ぜにした視線を向けられてる。
女子からは、「エルディナ王国の王子、皆んなのスーパースター・ラグナ殿下に喧嘩を売るとか、空気読めなさすぎでしょ……」という蔑視の目。
いや、最初に喧嘩売って来たのはあっちなんですけど……。でもその前に引っ叩いて地面にめり込ませちゃってるからなぁ……。
だけど、それでも一人や二人くらい、偏見なしで話しかけてきてくれても良いじゃないか、と思わなくもない。何なら教師陣ですら、目を合わせると微妙な表情を浮かべる。面倒な事しやがって、的な視線を感じる。
(……あーあ。フォルティア組がいなかったら、完全に孤立無援だったな、俺)
ふとそんな考えが浮かびかけたその時だった。
不意に、あたたかいぬくもりが、右腕に触れた。
「え──」
俺の視線が右に向く。
ブリジットちゃんが、俺の腕にそっと腕を絡めていた。細くて、柔らかくて、どこか不器用な、その手つきに……ドキリと心臓が跳ねる。
「ど、どうしたの?も、もしかして、寒かったりする……?」
なんとか平静を装って尋ねた俺に、彼女はくすっと笑って首を横に振った。
「ううん。ただね──もうすぐ“統覇戦”の予選でしょ?でも、アルドくんが一緒にいてくれるから……全然怖くないんだぁ」
そう言って、ブリジットちゃんは真っ直ぐな目で俺を見た。少しだけ照れたように、けれど確かに誇らしげに。
「むしろ、ちょっと楽しみだったりして?」
そんなことを、さらっと言ってのける。
強いな、この子は。
自分だって、俺と一緒にいるせいで注目を集めて、きっと陰で色んなことを言われてる。それでも、気丈に笑って、俺の手を取ってくれる。
(俺なんて、まだまだだ……)
心の中で小さくつぶやきながら、俺は笑った。
「──そうだね。俺たちなら、予選なんて……ピクニックみたいなもんだよ」
それは強がりじゃなくて、本気でそう思えるくらい、彼女と一緒なら大丈夫だと思えた。
と、その瞬間だった。
「あらッ、お二人さん。お熱いコト!ギャタシも混ぜて欲しいわッ!」
後方から、ちょっと艶っぽい女声が飛んできた。振り返ると、艶やかな巻き髪ポニーテールを揺らしながら、ジュラ姉が手をひらひらと振って近づいてくる。
「お疲れ様っス!お二人もこれから学食っスか?」
続いて、無骨そうな男の声も。声の主は鬼塚くん。制服の着崩し方が妙に板についていて、どこか頼りがいのある雰囲気。
俺はブリジットちゃんと腕を組んだままの姿勢で振り向き、にっこりと笑って答えた。
「ジュラ姉、鬼塚くん。うん、今からちょうどお昼行くところ。二人もこれからお昼?」
「そうなのよォ〜!お邪魔じゃなければ、ご一緒していいかしらッ?」
「俺も一緒していっスか?」
二人とも、なんの遠慮もなく言ってくれる。ありがたい。今は特に、マジでありがたい。
「もちろん!みんなでご飯食べよ!」
先にそう言ってくれたのはブリジットちゃんだった。目が嬉しそうに輝いている。
俺が頷くと、四人で肩を並べて歩き出す。
その途中──
「どうでもいいけどよ、ジュラ姉。学食の食器は食うんじゃねぇぞ」
鬼塚くんがふと真顔で言った。
ジュラ姉は、ふふっと笑いながら巻き髪をふぁさっとかき上げて、ウィンクする。
「アラアラ、鬼塚きゅん!それは約束できないわねッ!」
「なんでだよ!!?」
鬼塚くんの声が、キャンパスの昼空に響いた。
それを聞いて、俺も、ブリジットちゃんも、思わず吹き出す。
なんだかんだで、笑い声の響く昼休み。
このメンバーがいてくれるだけで、俺は十分幸せだ。
避けられても、誤解されても、構わない。
……だって俺には、仲間がいるんだから。
そう思いながら、俺たちは四人並んで学食へと向かっていった。
ルセリア中央大学の昼の光は、どこまでも眩しくて、そしてあたたかかった。
◇◆◇
学食の入り口を抜けた途端、ざわめきと視線が一気に集中している一角が目に飛び込んできた。
中央の大テーブルから少し離れた場所。
人だかりが円を描くように取り囲んでいて、その中心に誰がいるのかが気になって足が止まった。
「な、なんだ……?有名人でも来てるのか?」
思わず呟きながら視線を滑らせると──俺はハッと息を呑んだ。
「……まさか、ラグナが!?」
王子である彼の登場ならば、この騒ぎにも納得がいく。しかし、その中心にいたのは、予想とはまるで違う、けれどある意味で想像以上のインパクトを持った面々だった。
親子丼を大盛りでかき込むリュナちゃん、上品にサラダをフォークで摘む蒼龍さん、猫の覆面を被ったままストローでジュースを吸い込む謎のレスラー・イヌナンデスことグェルくん、そしてその足元には──おりこうミニチュアダックス、フレキくん。
「おっ、兄さーん!姉さーん!こっちっす!こっち〜!」
リュナちゃんが、黒マスクを顎まで下げたまま、箸を持った手をブンブン振ってくる。
その元気な声に学食全体が一瞬静まり返り、すぐさま「……誰だあの美女?」というヒソヒソ声が巻き起こる。
「ちょっと、リュナちゃん!お行儀が悪いわよぉ?」
蒼龍さんが困ったように眉を下げて注意すると、リュナちゃんは「あっ、りょっす〜!」と軽く返しながらも、気にする様子もなく丼をかきこみ続けていた。
グェルくんはというと、猫の覆面の口の部分からストローを差し込み、ズズズーッとドリンクを吸っている……が、その無機質な猫の表情からは、何を思っているのかまるで読めない。シュール過ぎる。
一方でフレキくんは、ドッグボウルに盛られた見た目にも美味しそうな料理を幸せそうに食べている。
「リュナちゃん!?どうして学食にいるの?」
ブリジットちゃんが驚きつつも嬉しそうに声を上げる。
俺も席につきながら続ける。
「本当だよ!それに、蒼龍さんにフレキくん、グェルく……いや、イヌナンデスまで!」
蒼龍さんが笑顔で頷きながら答える。
「ヴァレンくんが“関係者入構パス”っていうのを発行してくれたのよぉ。どうしても、アルドくんたちの通う大学、見てみたくてぇ」
──はえぇ。ヴァレン、そんなことまで出来るのか。流石、国賓にして客員教授。
そう思っていると、リュナちゃんが俺の隣にずずいっと座り、例によって俺の肩に手を回して顔を近づけてくる。
「だってぇ〜……最近毎日、兄さんも姉さんも、カクカクハウスに帰ってくるの遅いじゃないっすか〜。あーし、一人で待ってるとチョー寂しくて〜」
うおおお……! 距離!近い!リュナちゃん、それはやばい!この位置でその発言は、周囲の目線がッ!
案の定、すでにあちこちからヒソヒソ声が響いてきていた。
「お、おい……あの褐色の美女、入学式で”銀の新星“の上に現れてた……」
「ブリジット・ノエリアと二股かけてるっていう、あの……謎の美女じゃね?」
「実在したのか……尚更許せねぇ……”銀の新星“……!」
──いや違う!と言いたいところだが、違わない!事実だ!だけど……!
俺は決めた。逃げないと。
リュナちゃんの腕に手を添えたまま、隣のブリジットちゃんにもそっと手を伸ばし──
「──そーだよ!?俺、二人とも好きな二股野郎なんだ!!それが何か!?」
宣言してしまった。
ブリジットちゃんは「えっ!?はわわっ……!」と顔を赤くする。
リュナちゃんは嬉しそうに「兄さん、今日は積極的っ!」と少し赤くなりながら喜ぶ。
「ええい、見せもんじゃねぇや!!野郎ども、散れ散れぃ!!」
ヤケクソ気味に叫んだその声に驚いたのか、ギャラリーたちはワァーッと蜘蛛の子を散らすように解散していった。
俺は内心赤面しながらも、両隣に座る二人の手をそっと離し、咳払いひとつして座り直す。
蒼龍さんがくすくすと笑って言う。
「あらぁ〜……アルドくん、なかなか思い切ったわねぇ……」
イヌナンデスは猫の顔のまま、ジュースをダラダラと溢しながらこっちを凝視している。表情が読めないが、妙に真剣だ。
フレキくんは元気に尻尾を振りながら「アルドさん、かっこよかったですっ!」と満面の笑みを向けてきた。
そして──
「ギャタシもいつか……三番目の席に……ッ!」
ジュラ姉が目をギラつかせてこちらを見ていた。
内なる肉食系女子が出ちゃってるよ!
──その時だった。
「──騒がしいのう。近頃の学生は、静かに飯も食えんのか?」
背後から冷ややかな声が飛んでくる。
振り返った俺の視界に映ったのは──
小柄な体に、上半身ほどの大きさの魔女帽子を被った、可愛らしい少女だった。パステルカラーのフリルが揺れ、魔法少女めいた服装があまりにも目立っていた。
少女は俺をまじまじと見つめ、そして──
「──お主が噂の“銀の新星”……アルド・ラクシズか。思ったより、マヌケな面構えじゃな。」
と鼻で笑った。
──な、何だ……?
この老人口調の失礼な幼女は……!?
この迸るロリババア感……マイネさんとキャラ被ってない!?
そんな俺の失礼な心の叫びなどどこ吹く風。
魔女っ子幼女は、冷たい視線を変えることなく、じっと俺を見つめていた。




