第154話 竜神器、発現。
「リュナちゃんっ!」
ブリジットの弾んだ声が、夜の遊園地に明るく響いた。
ネオンはとうに消え、風に揺れる観覧車の残光だけが頼りの舞台。
その光の下で、振り返った彼女の視線の先に──翼を大きく広げたリュナの姿があった。
だが。
「……あれ?」
驚きと喜びで輝いていたブリジットの瞳が、一瞬だけ揺らぐ。
繭のように身を隠していた時間を経て現れたリュナ。
しかし、その外見は変わらない。髪も、翼も、マスクも──以前のまま。
期待していた“変化”が見えず、思わず口が半開きになる。
巨人の肩で腕を組んでいた蒼龍は、その様子を見下ろし、口角を吊り上げた。
赤い月を背に、扇を翻す姿は勝ち誇った舞姫のよう。
「フフ……時間がかかった割には──何も変わってないじゃないのぉッ!」
声は鋭い刃となって夜気を切り裂く。
その言葉に呼応するかのように、巨人の拳がゆっくりと持ち上がった。
百を超える住人の身体を寄せ集めて形作られた腕。
鉄塊めいた質量が空気を押し潰し、地鳴りのような轟音と共に振り下ろされる。
──地面が揺れた。
──ジェットコースターの鉄骨が悲鳴を上げるようにガタガタと鳴る。
──圧し掛かる暴力の影がリュナを覆う。
その瞬間。
「……あー、ちょ、ストップ」
気だるげに、まるで退屈な雑談の延長線にあるような調子で、リュナが右手をひらりと上げた。
刹那。
巨人の拳が──寸分の狂いもなく空中で静止した。
轟音が嘘のように止み、ただ風が残骸を鳴らす音だけが響く。
「……なっ!?」
蒼龍の声は掠れ、思わず喉を押さえる。
血走った眼が見開かれ、額にじわりと汗が浮かぶ。
(今……“咆哮”スキルは確かに封じていたはず……!)
(なのに、どうして……たった一言で、あの巨体が止まったの……!?)
理屈が追いつかない。
心臓が乱打するように脈を刻み、全身に不快な熱が走る。
蒼龍はぶるりと頭を振り、己を叱咤した。
(……まぐれよ! 偶然に決まってる! そうでなければ──!)
扇を握る指に、知らず知らず力がこもった。
蒼龍の扇が大きく弧を描いた。
赤い月光を浴び、五火七風扇の軌跡がぎらりと煌めく。
瞬間、巨人の体に再び命令の魔力が叩き込まれる。
無数の肉体で構成された腕が、唸りを上げてうねり、今度こそリュナを叩き潰そうと振り下ろされる。
空気が震え、観覧車がきしみ、レールのボルトが悲鳴を上げる。
だが──
「──だからさぁ」
リュナの声は、どこか投げやりで面倒そうだった。
買い物帰りに友人を引き止めるような軽さで、彼女は片手をひらひらと振った。
「ちょい待てっつってんじゃん」
その瞬間。
ズシィッ……!
巨人の拳は、地面を抉る寸前で動きを止めた。
衝撃の余波だけが広場を震わせ、舞い上がった砂塵がさらさらと降り注ぐ。
あまりにも不自然な静止に、時間そのものが凍りついたかのようだった。
「……バカなっ!?」
蒼龍の喉から、焦り混じりの叫びが迸った。
さっきとは違う。今度は確かに自分が命令を下した。封印も健在のはず。
なのに──なのに、また止められた。
血走った眼が大きく見開かれ、額に浮かんだ汗が月明かりに鈍く光る。
蒼龍は必死にリュナを睨み据えた。
その黒いマスクに……見覚えのない“異物”が刻まれていることに気づいたからだ。
(……あれは……?)
マスクの端。
そこに、小さな模様が浮かんでいた。
──ギザ歯を剥き、にぃっと笑う、不気味でどこか愛嬌のある“口”。
(……そんなもの……さっきまで、あった……?)
背筋を冷たいものが這い上がる。
理屈では説明できない“異常”。
だが確かにそれは、リュナのマスクの端に存在し、今しがた巨人の動きを嘲笑うかのように輝いていた。
◇◆◇
振り返ったブリジットの目は期待でいっぱいに輝いている。
群がる魔物の影の中でなお、その表情は子どものように純粋だった。
「何か分からないけど……上手くできたのかな?」
問いかけに、リュナは黒マスクの奥でニィッと唇を吊り上げる。
金茶の髪をひと房かき上げ、耳に掛ける仕草はどこか挑発的で、誇らしげでもあった。
「バッチリっす! ──ほら、見てみ?」
マスクの耳に掛かる部分に、黄色い花が咲いている。
花火の夜、アルドが不器用に手渡してくれた、小さな髪飾り。
今は黒マスクと溶け合い、一つの意匠として輝いていた。
「わぁ……! 可愛い〜!」
ブリジットは両手を胸元で合わせ、まるで宝石を見つけた子どものように声を弾ませる。
「でっしょ〜?」
リュナは少し照れたように肩を竦めると、黒マスクを指で弾きながら笑った。
「この黒マスクがあーしのトレードマークっすけど……兄さんから貰ったこの髪飾りも、大事な宝物。だから二つを合わせて──新しいカタチにしたんすよ」
夜空に咲いた少女たちの笑い声は、遊園地の壊れたネオンを一瞬だけ灯し直したかのように、温かな色を周囲に落とした。
──その眩しさが、蒼龍の苛立ちをさらに強くする。
「……それが、何だっていうのよッ!」
巨人の肩の上。
五火七風扇を握る蒼龍の手はわずかに震え、歯ぎしりの音が遠くまで響く。
だがリュナはその声に怯むことなく、ゆるりと蒼龍へ視線を向けた。
黒マスク越しの瞳は、どこまでも挑戦的に煌めいている。
「確か、“神器”ってさ──」
軽口のように、しかし言葉には確かな芯があった。
「『誰かから譲られた武器が神器になることもあれば、己の執念や信念が形になることもある』……そういう話だったっすよね」
黒マスクの下、口角がにやりと吊り上がる。
「──あーしのは、前者ってワケっす」
「ま、まさか……っ!?」
蒼龍の瞳に焦りが走り、思わず声が裏返る。
その隣でブリジットは目を輝かせ、手を胸に当てて前のめりになった。
「それって……鬼塚くん達が持ってた“神器”と同じってこと!?」
リュナは片手を唇に添え、ふっと吐息を漏らす。
挑発するように、しかしどこか誇らしげに。
「そゆことっす」
そして囁くように、だが夜空を支配するほどの強さを込めて言い放った。
「これが──あーしの“神器”……いや、“竜神器”っすね」
──空気が、一瞬で張り詰めた。
リュナが黒マスク越しに息を吸い込み、声を叩きつける。
「“竜神器”解放……!」
「──"黒縄叫喚竜姫"。」
咆哮のような宣言が夜空を揺らし、観覧車すら軋ませる。
その瞬間、黒マスクの縁から奔流のように黒銀の魔力が迸った。
轟、と風が逆巻き、広場に渦を生む。
まるで黒炎と銀光が絡み合うかのように、リュナの輪郭が激しく揺らぎ、形を変えていく。
黒銀の魔力がはじけ飛ぶと同時に──そこに現れたのは、禍々しさと美しさを同時に宿した戦乙女の姿。
身体を覆うのは、レオタードを思わせるシルエットの鎧。黒銀にイエローの稲光のようなラインが走り、女性らしい柔らかさとしなやかさを逆に際立たせる。
脚部には竜の鉤爪を模したグリーブ。足を踏み出すたび、アスファルトが小さく割れる。
腕は四本。まるでシヴァ神を思わせる異様な神性を放ち、竜腕型のガントレットが煌めく。
顔の下半分は金属製の黒マスクで覆われ、その上から黄色い花のティアラが夜空に浮かぶ月光を反射する。
そして背中から広がる二枚の黒銀の竜翼──広げた瞬間、吹き抜ける風が魔物の群れを一斉に押し返した。
その姿は、人の身と竜の威容を併せ持つ“竜姫”。
遊園地の朽ちた照明すら、彼女の魔力に照らされ再び輝いたように見えた。
「わああ……っ!」
ブリジットが夢見るように声をあげる。
ぱちぱちと手を叩きながら、少女の顔で無邪気に笑った。
「リュナちゃん、かっこいい〜!」
「でっしょ!? ぶっちゃけ、あの鬼塚とかいうガキんちょの“変身”、羨ましくってぇ…… だからパクっちゃいましたっす!」
変身した竜姫の姿で、リュナは軽々とギャルピースを決める。
その場違いな明るさに、ブリジットは「えへへっ」と照れ笑いを浮かべた。
だが──蒼龍は凍りついたように目を見開く。
肩に立つ彼女の両手の扇が震え、全身に鳥肌が立つ。
(こ……これが……フォルティアの魔竜、咆哮竜ザグリュナの……本当の力……!?)
胸を押し潰すほどの魔力の奔流。
息をするだけで肺が焼けそうな圧迫感。
圧倒的な存在感に、心臓がバクバクと暴れ、冷や汗が背を伝った。
必死に自分を叱咤する。
(落ち着くのよ……! いくら力を増そうが、“封印呪法”で咆哮さえ封じてしまえば……恐るるに足らない……はず……!)
──だが、その確信はもはや、自分自身にすら届いていなかった。
◇◆◇
「呑気にお話してる余裕なんて、あるのかしらぁ!?」
蒼龍の叫びが夜空を裂いた。五火七風扇が大きく振り抜かれ、巨人の全身に赤黒い魔力の指令が走る。
「ウオオオオオッ!!」
百を超える魔物の肉体を組み合わせた異形が咆哮し、天を衝く拳を振りかぶった。
振り下ろされる拳は夜風を爆ぜさせ、広場全体を揺るがす。鉄骨のジェットコースターがギシギシと悲鳴を上げ、観覧車の影が激しく揺れた。
蒼龍は息を止めた。封印の呪は確かに走り、リュナの「咆哮」の力を縛ったはずだ。
(今度こそ確実……! この一撃は、避けられない!)
だが。
リュナは蒼龍を一瞥すらしない。
ブリジットに視線を向けたまま、四本の腕のうち一つをだるそうに持ち上げた。
その掌の中央に──不気味な口の模様。
ギザ歯を剥いて、にぃっと笑っている。
『……動くな〜』
軽口のように、掌の口が喋った。
──ズシィィィン!!
次の瞬間。
巨人の拳が目前で硬直する。膨大な質量は止まったまま動かず、空気だけが衝突を免れず爆ぜ、砂塵がブリジットの頬を撫でていった。
彼女の髪がふわりと浮き上がる。
「……掌に……口っ!?」
蒼龍の声は震え、血走った瞳がありえない光景を捉える。
リュナは気にする様子もなく、もう一本の腕をゆるりと巨人へ向けた。
次の掌がぱくりと開き、今度は陽気な声がこぼれ出す。
『はい、解散〜』
ズルリ……ッ。
不気味な音と共に、巨人の構造が崩れた。
絡み合っていた骨と筋肉がほどけ、数百の魔物の体がばらばらに解き放たれていく。
圧迫感を誇った巨躯は、一瞬でただの群れへと逆戻りした。
「な……っ!?」
蒼龍の喉から掠れた声が漏れる。
しかし終わりではなかった。
三本目の腕がすっと上がり、ばらけた魔物たちをかざす。掌の口が、今度はまるで工事現場の監督のように軽く叫んだ。
『ご安全に〜』
──ふわり。
落下を始めていた魔物たちの体が、やわらかな魔力に包まれる。
石のように叩きつけられるはずだった巨体が、羽根のようにゆるやかに降り、夜の地面に優しく横たわる。
呻き声も、血飛沫もない。ただ眠るように安らかに。
「……な、何なのよ……これ……!」
蒼龍は崩れゆく巨人の肩から飛び降りる。
思わず後退り、扇を握る指先が震えた。
「こんな、出鱈目なスキル……あり得ない……!」
月明かりの下、黒銀の竜翼を広げたリュナはただ不敵に笑っていた。
リュナはゆっくりと蒼龍に視線を向けた。黒銀の鎧の隙間から、禍々しい魔力が漏れ出す。
「もうな──」
黒マスクの奥から低い声。
「テメーの封印なんちゃらみてーなスキルは、あーしには通じねんだよ」
四本の腕が同時に蒼龍に向けられる。
その全ての掌に刻まれた口マークが、ギザ歯を剥いてにぃっと笑う。
──次なる恐怖が、蒼龍を飲み込もうとしていた。




