ホタル
いつものように僕は殴られていた。
腹を殴られ、うつむいたところで襟をつかまれ、引きずれて海岸へ向かう。
砂浜で数人に抱えられ、頭から地面へ叩きつけられた。
口の中に砂が入り、慌てて吐き出すと、彼らは「ギャハハ」と笑った。
彼らはいつもこのように「ギャハハ」と笑う。
どういうタイミングで笑うのかはよくわからない。
どのような感情なのかもわからない。
このときも「ギャハハ」と笑いながら、いら立っているようだった。
「全然突き刺さらねーじゃねーか。砂に」
ひとりが言う。
それで、僕を砂浜に突き刺したかったのだとわかった。
よほど柔らかい砂でなければ、それは難しい。
何度やっても、僕が砂まみれになるだけだった。
そのうちに飽きたのか、樹が生い茂って、人目のつかないほうへ、彼らは移動した。
グループのひとりの女と、残りの男たちがセックスをするのだ。
彼らはこの海岸に来ると必ずセックスをする。
砂がかからないようにと、いつもの場所にはブルーシートが置かれている。
「おおい、お前、見たいんだろう」
ひとりの男が大声で言う。
それに合わせて周りの男たちが「ギャハハ」と笑う。
白い乳房を丸出しにした女も「ギャハハ」と笑っていた。
帰ったら殴られる。
見ていないと殴られる。
だから、セックスをする彼らの傍らに、僕は立っていた。
「ギャハハ」と笑いながらかわるがわるセックスする様子を、僕は何も考えることなく眺めていた。
いったい何を考えれば良かったのだろうか。
***
それから数年たって、女はアイドルになった。
海岸で「ギャハハ」と笑いながら、男たちとセックスをしていた女がアイドルになるというのは不思議なものだ。
この女がテレビに出るのを見るたびに、僕は「不思議だなあ」と思った。
人気のあるアイドルグループの一員だったから、テレビでもよく見かける。
そういうときに、女は「ギャハハ」と笑わないのだった。
これも不思議だった。
このとき僕は幽霊になっていて、どういうわけか、幽霊であることに疑問を感じず、むしろようやく自分の居場所を見つけたというような、安堵に包まれていたのだった。
だから、誰かに恨みを持つこともなく、なんの感情も持たず、ただなんとなくふわふわと幽霊として漂うだけの毎日を過ごしていた。
そんななかで、「不思議だなあ」という気分になることは、ちょっとした娯楽なのだった。
漂うときには、壁をすり抜けてなるべくテレビの近くに行くようにしたし、そこで何の番組が放送されているか、確認するようになった。
女はアイドルグループの中で特別目立つ存在ではなくて、なんとなくいるだけのポジションだった。
そのうちに、なんとなくいなくなってしまった。
どうやらアイドルを卒業したらしい。
アイドルを卒業する、というのはどういうことなんだろう、と僕は考えた。
なんとなくいるだけのポジションの人は、卒業したらどうするのだろう。
また海岸でセックスをするのだろうか。
***
僕が幽霊になったのはなぜか。
始まりは肩パンだった。
いつものように「ギャハハ」と笑いながら、彼らが僕を取り囲み、「肩パンをしようぜ」と言ってきたのだった。
肩パンとはジャンケンで負けた人の肩を、勝ったほうが殴るゲームだ。
もちろん彼らはジャンケンはしない。
殴られるのはいつも僕だ。
彼らはこのゲームに熱中し、僕は毎日、肩を殴られるようになった。
来る日も来る日も殴られていると、人間の体というものは不思議なもので、硬くなってくるのだった。
どんどん硬くなっていく僕の肩を殴るのがつまらなくなったのか、あるとき彼らのうちのひとりがバットを持ってきて言った。
「これで殴ろうぜ」
それからはバットで殴られるようになった。
次第に殴られる場所は肩だけではなくなった。
バットで頭を殴られ、ようやく解放された帰り道、急に黒い水が、僕の足元からじゃぶじゃぶと湧き出てくるのだった。
慌てて足を持ち上げてみるが、水の感触はない。
落ち着いて周囲を確認すると、水が湧き出ているのではなかった。
僕の視界の下半分が、黒くおおわれているのだった。
「いったいどういう状況だろう?」と考えている間に、足ががくがくと震え、思い通りに動かせなくなり、けいれんとともに勢いよく道に飛び出してしまって、僕はトレーラーに引かれたのだった。
こうして幽霊になって、毎日ゆらゆら漂っているというわけだ。
***
ピュイー。
ほとんど聞き取れないような、かすかな高い音が、聞こえた。
この音は良くない音だ。
なんの音だかはわからない。
仮に犬笛だということにしておこう。
この犬笛は、僕に良くないものをもたらすものなのだった。
いそいで離れなければならない。
これまでこの音が聞こえたとき、僕はすぐに音から離れていった。
だから、なんとか無事に、幽霊として漂う日々を続けられている。
犬笛から逃げなければ――。
どうなるのだろう?
良くないものだということはわかっているが、何が起きるかは知らなかった。
そうやって、ちょっと考え込んでいるうちに、僕は犬笛につかまってしまった。
ピュイー。
音とともに、ずるずると引きずられていく。
大物を釣るための仕掛けにうっかり食いついてしまった小魚のように、抵抗することもできず、ぐんぐん引っぱられる。
そして、幽霊である僕は、白い大きな建物の中へ引きずり込まれたのだった。
***
「おお、おお! 起きたぞ! 起きた!」
白髪の、穏やかそうな顔をしたおじいさんが僕の顔をのぞきこんでいた。
白衣を着ている。
僕はベッドに寝ていた。
おじいさんは手を振りかざして何かをしようとして、途中でやめて、手を下ろした。
「君、君ねえ、聞こえるかな?」
「はい」
と僕は答えた。
うまく口が動かなくて「あう」という音になった。
「そうか、そう、無理はしなくていいからね」
おじいさんがゆっくりと言う。
「君ねえ、ずっと寝てたの。意識がなかった。10年間。それが、いま、戻ったの」
へえ、そうだったのか、と僕は思った。
幽霊になっていたものだから、自分は死んだと思っていたのだ。
生きているとは思わなかった。
「こうして意識が戻った。これはねえ、画期的なことなんだねえ。でもまずはそう、リハビリをね、体の調子を戻さないといけないよね」
と言った。
このおじいさんがずっと犬笛を吹いていてくれたのかもしれない。
それなら悪いことをした。
僕はいままで犬笛から逃げ回っていたのだ。
僕のほうはずっと幽霊のままで良かったのだけれど、このおじいさんにはそんなことわかるわけもない。
こうして生き返ってしまったのだから、おじいさんの言うとおり、リハビリでもしようか、と思ったのだった。
***
それから2週間ほど、リハビリをして、僕の体はかなり動くようになっていた。
これは普通では考えられないことらしい。
おじいさんは医者で、画期的な治療技術の研究をしていて、ちょうどそこへ身寄りがなく意識もない僕が入院してきたものだから、これ幸いと人体実験を繰り返してきたのだという。
「え、僕は身寄りがないんですか?」
「うん。君のご家族ね、死んでるよ。君が意識をなくしてすぐ。交通事故だって」
「そうなんですね」
特に何の感慨もなく、そうなんだ、と僕は思った。
「でも、人体実験とかしてもいいんですか?」
「それはね、君、結局やらなきゃいけないことだしね、科学の発展には必要なことだし、君に意識があれば許可をとったんだけどね、意識がないからさあ。それにそのおかげで、君の意識が戻ったんだよ? してもいいとか、そううことではないんだよね」
「うーん、そうですね」
おじいさんはどうも不思議な人だった。
穏やかな口調なのだが、どこか不安にさせる。
「君にはこれからも協力してもらわなきゃいけないからね。いろいろ検査しなきゃいけないことがあるし、インタビューもあるんだ。体の調子が戻ってきたら、退院するけど、僕の別荘で暮らすといいよ。うん、それがいい」
次々に予定を決められて、特にほかにやることもないので、僕はそれに従うのだった。
***
ひととおり検査を受けて、僕はおじいさんの別荘でのんびりしていた。
検査の結果が出るまで、待機らしい。
「結果次第で、まだまだやりたいことがあるんだよね」
とおじいさんは嬉しそうにしていた。
おじいさんの別荘にはダーツの機械があって、僕はルールもよくわからないまま、ダーツで遊んでいた。
もうダーツを投げて、的に当てられるようになった。
テレビのインタビューもいくつか受けた。
10年間眠ったままだった人間が意識を取り戻したというのは、ちょっとしたニュースになるらしい。
インタビューには必ずおじいさんが同席して、僕が簡単なやり取りをしたあと、嬉しそうにカメラへ向かって演説をするのだった。
内容はよくわからないが、とにかく画期的なことらしい。
別荘にはテレビがなかったから、どういう風に報道されたかはわからない。
おじいさんの演説はカットされずに流れただろうか。
カットされているかもな、と僕は思った。
そしてふと、僕がテレビに映るのを見て、ほかの人はどう思うだろうか、という考えが浮かんだ。
たとえばアイドルだった、あの女。
僕がテレビに出ているのを見て、許せないと怒り狂うかもしれない。
自分を差し置いて、なぜおまえが出るのだと。
あるいは、海岸でセックスしていたことをばらされるわけにはいかないと、口封じに来るかもしれない。
僕には「ギャハハ」と笑う彼らの考えがわからない。
だから、こんな突拍子もないことが浮かぶのだった。
僕の口封じをするために、まずは居場所を探る。
これはまあ見つかるだろう。
特に隠れているわけではないし、あのおじいさんは毎日僕の様子を見に来る。
そのあとをつければいい。
そして様子をうかがって、あの窓をバリーンと突き破って、僕に襲いかかるのだ。
そんなことを考えながら、
「バリーン」
とつぶやいてダーツを投げると、ちょうどそのタイミングであの女がバリーンと窓を突き破って飛び込んできて、その眉間に僕の投げたダーツが突き刺さったのだった。
女は床に倒れて動かない。
死んだのかな? と近寄ると、これはもう間違いなく生きている人間の表情ではなかった。
ダーツも深く突き刺さっている。
どうしようか、と考えるうちに、女の白い乳房が頭に浮かんだ。
セックスをしてみようかと服をめくってみるが、やはりそんな気分にはなれなかった。
おじいさんが来ればなんとかなるかもと思い、まあ別になんとかならなくてもいいかとも思い、特にやることもなくて、僕は女の死体をぼんやりと見下ろすのだった。
***
「なるほど、それはね、この女が悪いわけだしね」
やって来たおじいさんに事情を説明すると、そう言って大きな袋を持ってきた。
「だいたいね、君が生き返ったでしょう。そして、この女が死んだ。差し引きで、ゼロだよね。研究成果もあるわけだから、プラス。だからいいの。はいこれ、袋」
と渡される。
「なんですか? これ」
「袋。詰めるの、その女。片付けないといけないからね」
「ああ、はい」
と女を詰めて、言われるまま袋を担いで、別荘の近くの海岸へ向かう。
おじいさんもなにやら荷物を持ってついてくる。
そして、海岸に着くとおじいさんは手早く支度を始める。
いったい何をするのかと眺めていると、紐のようなものを渡された。
「はいこれ」
「何ですか? これ」
「これね、花火。好きなんだよねえ、花火」
「あ、はい」
ライターで火をつけて、僕とおじいさんは花火がパチパチと火花を散らすのを見つめた。
そうするうちに、だんだんと状況がつかめてきた。
このおじいさんが考えていることは、よくわからない。
10年も眠ったままで、突然起きて、めまぐるしく環境が変わって、流されるままに過ごしていたが、なんだかよくわからない状況に、僕は陥っているのだった。
その中心に、おじいさんがいる。
おじいさんが指差して、言う。
「あれ、キャンプファイヤー。よく燃えてるでしょう」
女の入った袋が、勢いよく燃えていた。
「あ、はい」
と僕は答えた。
「これ、ビールね。夏、終わりそうだけど、やっぱりビールだよね」
銀色の缶を渡される。
人差し指で開けようとして、うまくいかなかった。
こういうところは、まだ10年間の後遺症が残っているらしい。
「アハハ」
とおじいさんが笑って、僕はなんだか胸騒ぎがした。
おじいさんがビールを開けて僕に渡す。
口をつけると、おじいさんが言った。
「まあこれで、全部処理したから、問題ないの。元通り。君は何も考えなくていいの。君、どうせ死んでたんだからね。生きている意味、別にないんだから、検査に協力してればいいの」
また「アハハ」と笑って、ああ、そうなんだ、と僕は思った。
おじいさんの笑い声は、彼らの笑い声と同じだった。
こういう風に笑う人間が何を考えているか、僕にはわからない。
おじいさんだけではない。
みんな、こういう風に笑うのだ。
世界中、みんな。
そういう世界なのだ。
幽霊になっていたとき、どうしてあんなに居心地が良かったのかもわかった。
誰とも関わらずにふわふわ漂っているだけでいいからだ。
僕は生き返ってしまった。
この世界から抜け出して、いつまでも漂っていたかったのに。
こんなわけのわからない世界で生きていたくないのに。
せめて魂だけでも、この体からポワンと飛び立って、ホタルのようにゆらゆら光りながら、どこかへ行ってくれないかな、と僕は思って、しばらくぼんやり眺めていたが、そんなことは起きなかった。
ビールを飲み干して、空になった缶を潰して、「君はね、言うとおりにしてればいいの」とおじいさんに笑いかけられて、僕は何もかもあきらめて、うなずくのだった。




