5話 最前線
◇◇◇◇
アメリは馬の手綱を握ったまま、重厚な木の門を見つめた。ベッケル男爵の屋敷前だ。
「外観上はなんの異変もないけどねぇ」
リアムは首を巡らして門扉だけではなく、屋敷を取り巻く漆喰の白壁までも満遍なく眺めている。手には、馬の手綱ではなく、ネモのリードを握っていた。
その隣でアメリも首を縦に振った。
確かにそうだ。
門扉は風雨にさらされ、多少毛羽だってはいるものの、重厚で、家紋を彫り込まれたものだ。普段は誰か警備にでも立っているのだろうが、今は誰もいない。
「……これ、結界ですか」
地面に目をやった時、アメリの目は、白線を見つけた。
それはぐるり、と屋敷を取り囲むように細く長く引かれ、一周して門扉の前で完結していた。
「浄めの塩と聖水、灰に香油を混ぜて作ったものですね。屍鬼はこの匂いを嫌がる」
ロイがアメリに説明をしてくれた。
「匂い、ですか。こういうもの、文書では読みましたが……。実際に見るのは初めてなんですよ」
目をまたたかせ、それから膝を折って白線に顔を近づけた。行儀悪いかな、と思ったが誰も咎めるものはなかった。ネモが不思議そうに一緒に白線に顔を近づけていて、「なにしてるの」という顔をするので、目が合うなり、なんとも言えない気分になる。
「あんまり……、わかりませんが」
顔を上げると、マクシミリアンが馬鹿にしたように笑った。
「よかったな。お前は屍鬼ではないらしい」
(屍鬼なら、嗅ぎ取れるんだ、って言えばいいのに、いちいちこの男は……っ)
きぃ、と歯噛みをしたものの、さっき反省したので言い返すのは堪える。そのことに気づいたらしく、ロイが笑いながらアメリの頭を撫でてくれた。
そんな様子を見て、マクシミリアンが鼻を鳴らす。
「入るぞ」
マクシミリアンが一歩踏み出すより先に、ロイが馬の手綱を引き取る。それを背後に控える役人たちに渡している間に、マクシミリアンは門扉に手を掛けた。
アメリも役人に声をかけられ、自分の馬の手綱を渡す。
ぎい、と重い軋みが鼓膜を撫でる。嫌な音だ。一瞬だけ、腕に鳥肌が立つ。
視線をマクシミリアンに向けた。彼は自分に背を向け、門扉を押し開けているところだった。
「行こう」
マクシミリアンは振り返りもせずに、大股に白線を超えた。
その後ろをロイがぴたりとつく。
リアムは指で何かコマンドを出し、ネモと共に続いた。
アメリはおそるおそる一歩を踏み出しながら、ちらりと後ろを見た。
役人たちは馬の手綱を持ったまま、まったく動かない。アメリと目が合うと、手を振っており、見送る気満々だ。
(……そうか。ここから役人は、私だけなのか)
心細さを覚えながらも、アメリは白線をまたいで、敷地内に入った。
視界に広がるのは、色とりどりの薔薇の生け垣だ。
門扉から屋敷の玄関までは石畳が続き、玄関前に設置された馬廻りの側には噴水が作られている。
一般的な貴族の住宅だ。
「鍵は?」
すでにポーチに立っているマクシミリアンがアメリに手を伸ばしている。
「すぐ参ります」
答えて走る。背負った書類鞄が、かたかた鳴った。走りながら、自分のジャケットのポケットを探る。
「入ってすぐに、ネモに探索させる?」
「そうだな」
リアムとマクシミリアンの会話を聞きながら、アメリは古めかしい鍵を鍵穴に突っ込んだ。ぴたりとロイが身を寄せるからなんだろう、と思って顔を上げる。
「開けると同時に飛び掛かって来る時があるからね」
端的に言われ、反射的に背をのけぞらせた。
その拍子に、どこか触ったらしい。扉が開いた。
「うひゃあ! どうぞっ」
大声をあげて、ロイに場所を譲る。とりあえず浄化師だ。一般人の自分などなにもできない。
「……これは……」
「めちゃめちゃじゃん」
アメリが身を躱したすきに、屋内に入ったロイとリアムが呆気にとられている。待機を命じられたのか、ネモはお座りの姿勢を保ったままだ。
「……え。なに」
アメリは怯えながらも、マクシミリアンと共に屋敷のロビーに足を踏み入れた。
そして、絶句する。
ひとことで表現するなら。
室内は『荒れ狂っていた』。
『荒れ果てていた』ではない。『荒れ狂っていた』。
扉を開けてすぐの広い玄関ロビーに敷かれたアラベスク模様の絨毯は切り刻まれて細くちぎれ、接待用に使われていたであろう猫足の椅子やテーブルは横倒しのまま、足が折れている。床に散乱しているのは、どうやら装飾性の強い姿見の残骸のようだ。明り取り用の天窓から差し込む光を乱反射させ、室内はやけに明るい。
その、玄関ホールから上にむかって伸びるのは、二階に続く階段だ。中央で左右に別れ、その壁面には風景画が3枚飾ってあるが、いずれも穴が開いているか、破れているかで、現状、何が描いてあったかは全く分からない。見るも無残に破壊された絵画を見上げ、ぽかんと口を開いていたら、マクシミリアンの声が聞こえてきた。
「出られなくて暴れまわったんだろうな」
室内を見回しながら、独り言ちている。先に入ったロイとリアムも同意見らしい。
「寝室にいると思いますが……。ネモに臭いを辿ってもらった方がいいかもしれませんね」
ロイの言葉に、マクシミリアンとリアムが頷く。
「来い」
リアムが短く口笛を吹くと、玄関ポーチで待機していたネモが、するりと入ってきた。
「ネモ。探索だ。わかるね?」
リアムが片膝をつき、優しく頭を撫でる。その後、ポケットから女もののハンカチを一枚取り出し、ネモに嗅がせた。紋章からみるに、ベッケル家のものだ。夫人のハンカチなのかもしれない。ネモは茶色がかった瞳で飼い主を一瞥すると、床に長い鼻先を近づけて匂いを嗅ぎ始めた。
「かしこいね、ネモ」
リアムが穏やかな声をかけた。
リードは左手に持ち、右手には、同じく腰ベルトのホルダーから引き抜いた警棒を緩く握っている。
そうして、リアムはネモと共に荒れた室内を歩き始めた。その様子は随分と大人びて見えて、年齢を知らなければ、義弟と同い年かそれ以上に見えたかもしれない。
「お前」
物珍し気にリアムとネモを見ていたら、不意に隣から声をかけられた。
「はい」
返事をして顔を向ける。マクシミリアンだ。
「なにか武器を持っているのか?」
「ぶ、武器ですか」
素っ頓狂な声が出た。ちらりとロイを見ると、軽く自分の佩刀を叩いて見せる。マクシミリアンに視線を戻すと、彼は右掌を開いて見せた。拳鍔に似た鋼鉄が五指にはまっていた。
「……え。私も武器が必要だったんですかね」
慌ててマクシミリアンを見上げる。
「お前、自分がどこにいるのかわかっていないのか?」
腰を屈め、アメリに顔を近づけて片頬を歪めてみせる。
「最前線だよ」




