夢の中で
リヒテスブルク王国のとある街。そこでは一人の女性が連日の悪夢に悩まされていた。その理由は幼い子供を遺して夫を亡くしてしまったからである。
彼女の夫は船乗りであり、領主からの命令で目的も知らされずにほぼ強制的に動員された。そういう事情もあって、彼女は詳しいことは知らない。だが船の向かった先が海賊、それも王国の海軍すら撃破するほど凶悪な者達が跋扈しているという情報が飛び込んできたのだ。
王国の海軍ですら歯が立たなかったのに、自分の夫が乗る船がどうにかなるはずがない。彼女は悲嘆に暮れながらも幼い子供を育てるためにも必死に働くしかなかった。
朝早くから夕方まで働く。まだ赤子である子供を背負って働くので肉体への負担は大きく、毎日疲れ切った状態で眠る。クタクタになって眠りについても悪夢のせいで彼女の心が休まることはない。日に日に憔悴していくのを彼女自身が自覚していた。
「これは…夢…?」
ただ、今日の夢は異なっている。毎日悪夢を見ていたという認識はあっても夢の内容を憶えてはいなかった。悲鳴と共に肩で息をしながら目を覚ます。そんな日々が続いていたのだ。
しかしながら、今日の夢は大きく毛色が異なっている。自分が夢の中にいると何故か理解出来ており、そのことを不思議だとは感じなかった。
彼女がいるのは真っ暗で、地面はくるぶしの辺りまで水で満たされている空間だった。立ち込める紫色の霧のせいで視界は非常に悪く、すぐ近くに誰かがいたとしても気付けないだろう。
異常過ぎる空間だ、と頭では理解出来る。だが、不思議なことに彼女はそれを怖いとも不安だとも感じない。ただひたすらに前へ前へと歩いていた。
『苦しいか?悲しいか?』
感覚に従って前進し続ける彼女だったが、謎の空間全体に性別不明の声が響き渡る。怪しい空間に響く、怪しい声。どう考えても聞くべきではないだろう。
だが、やはり彼女はこの異常な声を聞かずにはいられなかった。彼女は声のする方向へとゆっくりと歩みを進める。一歩進むごとにバシャバシャという水の耳障りな音が響くが、彼女は全く気にならなかった。
『何故に苦しむ?何故に悲しむ?』
「あ…夫が…夫が…」
彼女はうわごとのような口調で問いかけに答えた。その時、初めて彼女は霧の中から聞こえる別の声を聞き取った。
その者達は年齢も性別もバラバラであるようだが、顔見知りが何人もいる。どうも自分と同じ街の住民であるらしい。彼らもまた全員が問いかけに答えている。自分と同じく、何らかの原因で苦しんでいるようだ。
全員が各々を苦しめる要因について吐露していると、その声は語りかける。その声を無視することはここにいる誰にも出来なかった。
『原因は何だ?元凶はなんだ?』
「原…因…?」
『お前達を苦しめる原因は何だ?』
謎の声の問いかけに、その場にいる者達は真っ先に思い浮かんだ答えを返そうとした。彼女も海賊だ、と答えようとして…何故か彼女の口からは何の言葉も出すことが出来なかった。
それは他の者達も同じであったらしい。少しだけ薄れた霧の向こう側にいる者達は口をパクパクと動かすばかりで声を出せていなかった。
『誰が悪い?何が悪い?そもそもの元凶はなんだ?』
「…王国だ」
何度も聞いてくる声に対し、たった一つの声だけが答えることに成功した。その答えとは王国、つまり彼女らの祖国であった。
「王国が余計なことを言い出さなけりゃ!兄貴は死ななかった!海賊の根城に突っ込むハメにならなくてすんだんだ!」
「…そうだ。そもそも領主に徴兵されなけりゃ、息子は今も漁をしてたんだ!」
「物価が上がりすぎたせいで働き詰めになった母さんが倒れたのも、元はと言えば王国の悪政のせいじゃない!」
人々は王国や領主への不満を爆発させた。自分達が苦しむことになった元凶は王国の失政によるもの。そんな空気が伝播していく。そして不満について叫ぶ声はどんどん大きくなっていった。
彼女の冷静な部分は今の状況に違和感をおぼえていた。王国以外が原因だという意見を封殺した上で、王国のみが原因だという空気を意図的に作り出したようにしか思えなかったからである。
「そうよ…何もかも王国が悪いのよ!」
ただ、彼女の心は決して理性を失わずに理屈でモノを考えられるほど強くなかった。内心では自分の苦しみの原因を、恨みを向ける先を求めていた。理不尽に苦しい生活を強いられている以上、攻撃する先を求めるのは自然な反応と言えよう。
そして、王国というのは絶好のはけ口であった。安くない税金を徴収しておきながら、自分達の安全で平和な生活を守るどころか失策によって破壊する統治者。実際に手を下したこれを恨まずして何を恨めと言うのか?
『王国は、王は仕えるに値するか?値せざるか?』
「「「値しない!」」」
『王国に、王に従うことに不満はないか?』
「ある!」
「不満しかない!」
「業突く張りの王に、色ボケの王太子!頼りにならんわ!」
声は明らかに王国への憎悪を煽っている。彼女は、いや、この空間にいる全ての者達は声の意図に気付いていたのかもしれない。王国に対する悪意を全く隠せていなかったからだ。
だが、最早そんなことはどうでも良かった。自分達の溜め込んだ不満を、理不尽への怒りをぶつけられる先を示された彼女らにとって声の主の意図など関係ない。憤怒と憎悪から振り上げられた拳には、最初から振り下ろす先を示されているのだから。
『良きかな、良きかな。不満ならば抗え。抗って変えるしかない』
「その通りだ!」
「私達を苦しめる国なんていらないわ!」
『しかし、お前達は弱い。悲しいほどに弱い』
「そんなことはねぇ!」
『王国は強く、大きい。お主一人が強かろうが、王国ほど大きくはなかろうよ』
声の主は自ら焚き付けて置きながら水を差すかのような事実を告げた。ここにいる者達は決して腕に覚えがあるというわけではない。戦う力そのものを持たない者達がほとんどだ。
少数ながら戦う技術を持つ者もいる。だが、その割合はかなり低かった。そして王国の最精鋭と呼べる実力者達はそれなりの待遇を受けていることもあって、こんな所には存在しない。己の力量を理解しているからこそ、彼らは悔しげに顔を歪めた。
『弱いのなら、強くすれば良い。王国は大きいが、お主らはそれ以上に大きくなれば良い』
「大きく…?」
『結束せよ。大きな、とても大きな流れを作れ。悲しみに嘆き、苦しみに喘ぐのはお主らだけではない。一度生まれた流れはお主らの怒りという勢いによって王国を押し流すであろう』
「そうだ、協力し合えばいいんだ!」
「まずは近所の奴等で同調しそうな連中を…」
明確な指示を出したところで、謎の空間を満たす霧が急激に濃くなっていく。視界が全て塗りつぶされた、と思った時には彼女は目を覚ましていた。
何とも不思議な夢であった。だが、悪夢に苦しめられていた時とは異なり、久々にスッキリとした目覚めである。気力は充実していて、身体は活力で満たされていた。
「今日も頑張ろう。それに、目標も出来たしね」
眠っている息子の顔を優しく撫でながら、彼女は微笑みと共にそう呟く。仮に第三者がいたなら、その狂気的な雰囲気に異常を感じていたに違いない。彼女は朝の支度を整えてから、子供と共に家の外に出ていくのだった。
◆◇◆◇◆◇
「いやー、思った以上に上手く行ったわね!」
「メェー。悪魔の能力って怖いなー」
集団で同じ夢を見たとある街の郊外にある大樹の上には、密集する木の葉と枝に隠れるようにして小さな小屋が建てられている。そこではモツ有るよ、紫舟、そしてウールの三人が集まっていた。
街の民が見た夢は三人によるモノ。あらゆる悪魔はプレイヤーやNPCを誘惑したり誘導したりするための能力を持っている。三人はこれを組み合わせて街の人々に王国への不満と反逆の意志を植え付けたのだ。
「MVPはウールでしょう。貴方の力がなければそもそも成立しない作戦ですから」
モツ有るよが褒めるように、ウールが三人の作戦の要であった。鳴き声によって状態異常、特に眠らせることが得意なウールの能力は【操夢】。他人の夢に干渉することが出来る能力だった。
特に干渉し易いのは精神的に参っている者達。悪夢を見るほど苦しむ者の心に侵入する。実に悪魔らしい能力と言えよう。
「紫舟がいないとー、とっても時間がかかったよー」
蜘蛛の姿をした悪魔である紫舟の能力は【心糸】。精神にのみ干渉する不可視の糸によって他人同士の心を繋げることが出来る。全員をあの謎の空間に集められたのは、彼女の能力によって心が繋げられたからだった。
「モッさんこそ、凄い演技力だったじゃん。みーんな煽りに乗せられてたよ」
「下地が出来ていましたから」
そしてモツ有るよの能力は【惑言】。言葉巧みに対象を操る悪魔にとって最もポピュラーな能力だった。
ウールが夢に引きずりこみ、紫舟が全員の夢を繋げ、モツ有るよがまとめて誘導する。これが三人で考えた作戦であった。
「初めてだったけどー、上手く行ったねー」
「この調子でドンドン反乱の種を蒔いていきましょう」
彼らの目的は王国の民衆に王国への不満を深く意識させ、反乱への抵抗感を薄れさせる。王国の足場を崩し、内部を混乱させて政情を不安定にするのだ。
内に不安を抱えた状態で外征が可能だろうか?まともな判断が出来るなら、反乱の芽が芽吹きつつある地方を領有する貴族は確実に嫌がるだろう。
「では私達三人で可能な限り王国を混乱させましょう」
「「おー!」」
こうして三人は密かに王国を内部から弱体化させていくことになる。反乱の機運についてはすぐに気付いたものの、己の悪政を理解しているからかその背後に扇動する魔物がいることを調べることすらないのだった。
次回は4月14日に投稿予定です。




