乱気流
その日は抜けるような青空と、まだ陽射しは強いが
9月の中旬らしいさわやかな風が緩やかに抜けて、頬を優しく撫でる
そんな旅立つには絶好の天気だった。
私は…
もう、飛行機の旅というのには楽しいというより少し苦痛にもなっていたが
他の人は、このいい気候と到着先の大自然に想いを寄せて
笑顔でボーディング・ブリッジを歩いている。
そして、芸術に近い化粧を纏い、
機械のように正確な所作で愛想を振りまくアテンダントの出迎えを受けて、
チケット片手に席を確認し、安堵の息をして席に着く。
アテンダントによる説明を上の空で聞き流して、
離陸のアナウンスにめんどくさそうにベルトを締める。
事故の多い離陸の瞬間と巡航高度まで上がるまでは緊張もするが、
それ以降は退屈な自動航行の旅となる。
ましてや、ヘルシンキまでは長旅だ…退屈をもてあまし
時々飲食ぐらいしかイベントの無い機内では
殆どが寝るか
雑誌を読むか、
映画を見るか…とにかく特にやる事が無い。
私は、某国が目的地だが、残念ながら直行便というものが無い。
どうせ乗り換えで、向こうでもひたすら乗り換え便を待つだけだ。
残念な事に雑誌も映画もとんと触手のうごく類のものもないし、
自然と瞼が落ちて、眠ってしまった…
まさか、これからとんでもない事になるとは思いもよらずに…
搭乗後、約1時間後…
ギュオオオオ――、グオオオー、ミリミリ…
丈夫なはずの機体が凄まじい乱高下の嵐で悲鳴を上げている。
あちこちで悲鳴や、嗚咽が広がる中、
マイクもつかめず、大声でアテンダントは必死に叫んでいた。
「 皆様、どんなに揺れようと当機の飛行には支障は御座いません!
どうか冷静になり、シートベルトを今一度確認していただき
席から立たない様に…グエエ…く、繰り返します 」
あのさ~、立てるわけないよあんた。
乱気流に馴れてるフライトアテンダントのあんたが、
立つことも出来ずにシートに座ったまま吐きそうになるぐらいだ。
一般の乗客は何もできるわけが無い…
私のように真っ青な顔で涙目でシートにしがみついてるか、
悲鳴を上げてパニックになっているか、
死んだように目を閉じて何かぶつぶつ言ってるか、
前の席の袋すら取れずに思いっきり吐きまくってあたりを汚物まみれにしている
可哀想な人があちこちに出てる状況だもの。
私だって、これが飛行機に初めて乗るわけでもないし、
彼氏の影響もあってわりと乗りなれていた。
結構、きつい乱気流にも出会ったことはあるけれど、
こんな凄まじいのは初めてだった。
それに大体、機長から乱気流の予告以降、
まったくアナウンスが無い…その余裕もないのだろう。
これ以上は、乱高下が続くと重力変化で気を失いかねない。
「 皆様…一旦、気流が安定する高度まで降下します。
燃料の心配もあり、最寄りの空港へ緊急着陸する必要がありますが。
グエエ、当機の安全にはなんら支障がありませんので… 」
いきなり機長からのアナウンスが入る。
訓練などで耐性のあるプロにもかかわらず戻しかけているようだし
言葉の最後のほうが聞こえてこなかった。
緊急事態だろう… 冷静にそう思った。
”普通、航行中の高度で発生する乱気流では、墜落などはまず、しない。”
と昔、同じように乱気流で機体が大きく上下したときに
一緒に乗っていた航空機に詳しい彼氏…和幸から聞いたことがある。
確か、
”ほとんどの場合危険なのは離発着の時に発生する乱気流だよ ”
とも言っていたように記憶している。
和幸によると、例え乱気流で機体がひっくり返っても、
最近の機体は自動復元するらしいし、
クルーも相当な訓練を受けているからまず大丈夫だよとも言っていた。
しかし、こうも付け加えた。
” 急激なGが限界を超えて乗員が、グレーアウトを起こしたらこの限りじゃない。
まあ、それでも機体が正常なら着陸地まで自動航行するから
よっぽどの事が無ければ目的地までに回復して無事着陸するよ。
ただ、航空機ってのはヒューマンエラーが一番怖いね。
通常の判断が出来ずに、たとえば自動操縦を切って
手動で安全な低空まで降りて行くという愚行… ”
…って、今の状況よね。
しばらくすると、前の方の座席に引っ張られるような感覚に陥る。
どうやら降下しだしたらしい。
でも、なんか急すぎる!
何人かが、天井に向かって浮き上がりだした!
必死にベルトにしがみついているのだろうけど…そのうち何人かは
ベルトの隙間から引っこ抜かれるようにして天井に叩き付けられていく。
ああ、
だからさぁ、アテンダントの説明通りに、
しっかりと安全ベルトをしないといけないのよ…。
と、自分も浮き上がり気味で腹にベルトが食い込みながらそれを見ている。
結構、打ち所が悪かったのか天井に血の花が咲いていた。
引っ張られる感覚に必死に耐えているけど…普通なら、
急激な気圧変化で落ちてくるはずの酸素マスクが落ちてこない…
これだけ急激に降下している中で酸素の供給が無いと…
人間なんか簡単に虚血して昏倒してしまう。
( これは…死ぬかな… )
他人事のような冷静さでそう思った。
航空機に詳しい最愛の人だった彼…和幸も、
この間、欧州の某国で航空機の離陸事故で亡くなっている。
バードストライク…
高度が上がりきらないうちに途中でカモか何かをエンジンに吸い込ませて
ブレードファンが損傷してエンジンが火を噴いたらしい。
更に、運が悪いことに乗り合わせたジェットは双発で
ほぼ同時に両方に飛び込まれたそうだ…ありえないほどの低い確率だ。
4発ならたとえ3つまで損傷しても、何とか引き返して着陸も出来たし、
双発でも1つだけなら同じように無事だったらしい。
航空機ってのは、死亡事故の確率なら、他の交通機関より格段に低いんだよ。
そういつも言っていた彼氏の言葉は、死んでしまえば100%だ…
ただ空しいもののように今でも思う。
それに、その飛行機で帰ってきていたら、
私と結婚するはずだったから、嘘つきって言葉さえ吐き出したくなる思いだ。
その後しばらくは、物事に無頓着な方の私でも、
流石に死んだようになって、誰とも会いたくなくなっていた。
当然のように会社を辞めて、実家で引きこもっていたんだ。
やっと、ここ最近、気持ちも落ち着いてきて
なけなしの貯金をはたいて、けじめをつけるために
事故現場での慰霊祭で慰霊碑に献花でもしておこうと乗ったのが今の飛行機だ…
( 私も、和幸と同様…運が無いなぁ。
ま…私は死んでもいいとしても、ね。)
それでも、この飛行機に乗っている人たちに罪があるわけじゃない。
必死に幼子を抱きしめて目を瞑っている母親らしき人や、
目を瞑って手を握り締めあう老夫婦や、
涙目で、スマホに遺書を書き込んでいる中年の男達、
悲鳴を上げながら天井で泳いで挙句に床に叩き付けられて
のたうち回る人々、
死にたくない!死にたくないよ~と叫んでいる若者たちが
死んでいいわけがない。
出来れば、全員助かってほしい。
だけど…こんな状態だと多分、助からないだろうとも思う。
航空機の事故は、ズタズタの死体になるから悲惨すぎる。
奇跡的に見つかった和幸の遺体も、
ぼろぼろの頭部だけで、かろうじてDNA鑑定で判明しただけだった。
私は…ショックが激しくて会いに行く事は出来なかったが、
ご両親は只の肉片のようなそれを見て、頭が変になりかけたって言っていた。
まあ、肉片でも残るだけいいか…
もし、海に落ちれば、バラバラになって肉食の海の生物に食い散らかされて、
残骸も残らずただの藻屑になる。
遺族にとっても一生、その人の死亡を受け入れることができないだろう。
そうなれば、悲惨すぎる…
例え、私の事はどうなろうとも他の人には助かってほしい…
実家の両親や、兄貴や友達には申し訳ないけどね。
どうせ、私なんか…生きていてもこの先しょうがないんだから…




