47.主婦、抱き締められる
ふと、視界に赤いものが映る。
「チカー、ちょっとそこどいてー」
顔を上げると、ワンドが険しい顔でこちらを睨んでいた。
茶色い筈のその瞳は、赤黒く光っている。
彼女が突き出した手の先では、太陽みたいに眩い火の球が周りの景色を歪めていた。
え、何?
『魔王』の腕が私の胴体を捉える。
彼は私をルクレツィアから引き剥がすように、部屋の隅まで跳んだ。
直後、爆音が辺りを大きく揺り動かす。
私に覆い被さった『魔王』の隙間から、ワンドを起点に放射状に畳が焦げ、その向こうの壁がなくなっているのが見えた。
しかし、その中心に立つ筈のルクレツィアには焼け焦げどころか何の変化もない。
どういう事、と問う間もなくルクレツィアの頭上に巨大な拳が降って来た。
拳が床にめり込み、畳と土台を砕く。
拳の持ち主は、三メートルはあろうかという巨人だった。
突然現れた巨人なのに、見知った面影がある。
あれはペンタクルだ。
格子を簡単にぶち破るくらいには力持ちだと知ってたけど、この姿を見たら納得だわ。
ペンタクルは、舌打ちをして右手に視線を向けた。
その先にはルクレツィアが佇んでいる。
涼しい顔をした彼女の背後で白刃が閃いた。
正確にその首筋を捉えていた筈の刃は、彼女の髪の毛を数本切り落とすだけに終わる。
苦々しげな表情で、ソードは反す刀をルクレツィアに向けた。
それもあっさりと彼女は躱す。
三人から均等に距離を取って、ルクレツィアは口を開いた。
「これはご挨拶ね。ついさっきまで可愛がってくれていたのに」
三人は、いつでも次の動きに移れるよう構えている。
「あなたでしょー、ご先祖様の村を壊滅させたのー」
「俺の一族、あんたに滅ぼされたんだよ」
「儂は二人とは事情が違うが、お主のせいで孫の代まで厄介な事になっていてな」
そういえば、ワンドが今の『魔王』になってから凄く平和になったって言ってたな。
三人の言う事からして、魔物の国が平和じゃなかった原因は、先代の『魔王』ルクレツィアにあったんだろう。
しかし、ルクレツィアは興味なさげにそう、と呟くだけだった。
「妾はあなた達の事、覚えていないのよ。ご免なさいね」
「生憎とそっちが覚えてなくても、こっちは覚えてるんでね!」
ペンタクルが再び拳をルクレツィアに向けて振り下ろす。
しかし彼女にはかすりもしない。
三人がかりで小さな女の子に対しているのに、誰も攻撃を当てられないでいる。
ワンドが放った火の球が、ルクレツィアに埃を払うみたくあしらわれて、こちらに飛んで来た。
思わず目を眇めたけど、それは『魔王』の数センチ手前で透明な膜みたいなものに行く手を阻まれ、派手な音を立ててその場で爆発する。
『魔王』にも私にも、火の粉どころか熱さえ届かなかった。
私に覆い被さったままの『魔王』に目をやる。
顔は見えなかった。
というか、抱き竦められてて動けない。
「ねえ、加勢しなくて良いの? ワンド達、全然攻撃当たってないよ」
「お前は目が良いな、あの動きが全て見えるか。まあ、あいつらはあの程度で死んだりしない。心配するな」
「でも」
「良いから、しばらくこのままでいてくれ」
何でこの状況でこのまま抱き締められてなきゃいけないのさ。
あ、私じゃなくてメトロさんを抱き締めてる感じ?
それなら仕方ないけど、それも今する事じゃなくね?
誰がやったのか天井が吹っ飛ばされ、青い空が露わになる。
今日も良い天気だ。
呑気な事を考えていると、更に呑気な事を『魔王』が言った。
「やれやれ、また建て直しだな。五十年だから持った方か」
お城の事ですよね。
その余裕はどこからやって来るの?
今闘ってるの『魔王』の部下でしょ。
死なないとしても、このまま闘わせてて良いの?
「お前が心配する必要はない。夫と子供がいる元の世界に戻りたいのだろう」
は?
何で今その話?
「ルドルフの所へ行って、執事と話をしてみろ。お前をこちらに召喚したのは、多分あの男だ。戻る方法も知っている可能性が高い」
ちょっと待って。
さっきは帰れると思って一瞬喜んだけど、良く考えたらメトロさんは魂のままだし、他にも色々気になる事があるし、このまま元の世界に戻るなんて出来ないよ。
何より、闘ってる三人を放って行けない。
「こちらとあちらの時間の流れ方が同じかどうか分からないから、なるべく早く戻った方が良い。浦島太郎になりかねないからな」
……それは、気が付かなかった。
言われてみたらそうだよね。
何だか急に焦って来た、どうしよう。
戻れたと思ったら息子ですらお墓の中とか、絶対泣く。
「そろそろ頃合いだな」
『魔王』が私を抱く力が弱まった。
私にでっかい爆弾投下しておいて、この人は一体何をしているのか。
ようやく私から離れた『魔王』は、自分の着物の袂をゴソゴソやって何やら取り出す。
「少し使わせてもらったが、これは便利だな。あの馬鹿にしては良い発明だ。持って行け、中の玉に魔力は込めてある」
手の平サイズの筒が二本。
『破魔の剣』だ。
鞄の中にないと思ったら、この人が持ってたのか。
まあ、武器だし軟禁されてた私に持たせとく訳ないよな。
「てか、これ『勇者』にしか使えないと思ってた」
私が『勇者』になる前から使えたのは、メトロさんが中にいるからだと思ってたし。
『魔王』は軽く笑う。
「忘れたか、私は元『勇者』だぞ」
あ、そうでしたね。
笑って誤魔化しながら『魔王』の顔を見る。
違和感。
それが何か突き止める前に、彼は『破魔の剣』を私に握らせた。
「空を飛ぶ方法は分かるか?」
「あ、多分。でも魔力が足りなくて」
「それは大丈夫だ。私の魔力をお前に注ぎ込んだ。百年分貯め込んだものだから、ルドルフの城まで行ってもお釣りが来るだろう」
ああ、何で私を抱き締めてたかって、その為だったのね。
それなら言ってくれれば良いのに。
要らぬゲスの勘ぐりしちゃったよ。
「でも、私にはそんな沢山の魔力を持っとけるキャパ無かったでしょ」
「魔物は個体によって魔力の上限が違うが、異世界人は違うらしい。私が百年かかって貯め込んでも上限には達しなかった。お前が頻繁に魔力切れを起こすのは、そもそも貯め込んだ魔力が少なかったからだろう」
それは『魔王』のキャパが極端に大きいだけの可能性もあると思いますが。
「安心しろ、九割は移せた」
それなら安心です。
これで少しは闘える。三人に加勢出来る。
私は『破魔の剣』を両手に握り締めて、派手に火の手が上がる方を振り返った。
「待て」
肩に手が置かれる。
「お前が行くのはそっちじゃない」
「何で!」
部下を助けもしないで、見知らぬ異世界人が元の世界に戻る手助けなんかするのか、と言おうと『魔王』を睨んだ所で、さっきの違和感の正体に気が付いた。
「私が黒幕に操られている、という話は覚えているか」
頭に上っていた血が、一気に下がる。
「こういう意味だ」
彼の丸かった筈の瞳孔は、山羊のそれの様に横に長い。
まるで『悪魔』だ。
本物を見た事もないくせに、私はそう思った。




