44.主婦、空を飛ぶ
派手な水音と共に池に落ちた私は、水をしこたま飲みながら何とか起き上がる。
池は座っても胸まで届かないくらいに浅かった。
これ、あまり高くないとこから池ポチャしたとしても底に激突する奴じゃない?
ともあれ、命は助かったらしい。
水を飲んで咳き込んだものの、怪我もなさそうだ。
膝の上で鯉みたいな魚がビチビチ跳ねている。
ピラニアみたいな歯があるから厳密には鯉とは違うけど、まあ鯉で良いか。
咬まれない内に池から上がろう。
「ねー、今の誰ー?」
屋根から下りて私が池から上がるのに手を貸しながら、ワンドが聞く。
「メトロさん、私の師匠だよ」
「ふーん。チカにすごく似てたけど、違う人なんだねー」
そりゃあ、メトロさんと一緒になって今の姿になったんだから、似てて当たり前だ。
でも何で、あそこでメトロさんが出て来たんだろう。
幻?
にしてはしっかり私を支えてくれてたし。
あ、もしかしたら私のピンチを察したメトロさんが、頑張って一瞬だけ蘇ったとか。
私のために一瞬でも蘇ってくれるなんて、これ以上ない程嬉しいじゃないの。
「そっかー、チカは慌ててお師匠の事を思い浮かべちゃったんだねー」
ん?
「空飛ぶんじゃなくてー、お師匠に助けてもらう想像したんでしょー」
……はい、その通りです。
本来空飛ぶ想像する所を、メトロさんで頭いっぱいにしてしまいました。
結果、私の頭の中のメトロさんの姿が実体化して、私を受け止めたというのが事の真相のようです。
残念ながら。
頷いた私に、ワンドはそっかーと呟いて笑う。
「でもー、あんなにしっかり実体が作れるんだからー、やっぱりチカは主様みたいに飛べると思うよー」
そうなの?
無我夢中でやった事だから、あんまり当てにならないと思うんだけど。
「だからー、次は大丈夫だよー」
やっぱり次はありますよね。
てか、出来るまで何度でも屋根から落っことすつもりだよね、この子。
早速私の腕を掴もうとするワンドの手を、私は握った。
「ちょっと待って」
「なにー?」
「その前に、主様はどうやって飛んでるのか教えて」
「えー、普通だよー。ふわっとなってー、ひゅーん、って飛ぶのー」
うん、この子に聞くのが間違いだった。
とにかく、さっきメトロさんを実体化した要領で、自分が空を飛んでる姿を思い浮かべれば良いんだよね。
さっきは気が動転して何か色々変な事を考えたけど、冷静になってみれば、空を飛ぶ生き物はどこの世界にも沢山いるんだから。
蝶々に鳥に、天使に妖精。
目の前にいる魔物の少女。
そういえば、みんな羽根や翼を持ってるな。
つまり、自分に羽根が生えた姿を想像してみたら良いのか。
背中に羽根、背中に羽根……
ああ。
自分は普通と違うんだ、なんて思ってた中学生の頃を思い出すなあ。
パンドラの箱が開く音がする。
それ開けちゃいけない奴だよ、のたうち回るよ私。
「じゃあー、上に行くよー」
「待って待って!」
「今度は何ー?」
「今空飛ぶ想像しようとしてるから」
「考えるよりやっちゃえって言うでしょー」
それを言うなら案ずるより生むが易し、いや考えるな感じろ、の方が近いか。
じゃなくて考えがまとまるまで待ってってば!
そんな心の叫びがワンドに聞こえる筈もなく、私は腕を取られて再び屋根の上へと持って行かれた。
もう腹をくくるしかない。
翼が生えた自分を想像するんだ!
言葉にすると凄く小っ恥ずかしいけど!
そうしないと延々屋根から放り投げられるから!
何だか、高い所が怖いとかいう感情も麻痺して来た。
高所恐怖症って荒療治で治るんだね。
今そんな事考えてる場合じゃないけど。
「じゃあー、行ってらっしゃいー」
先程と同じく身体が空中に投げ出される。
重力って偉大だ。
でもこの世界じゃ平等ではないらしい。
だって、飛べない筈の人間が空を飛べるんだから。
魔力を持ってれば、だけど。
良し、さっきよりは冷静だ。
そんな事を考えてる辺り、平常心には程遠い気がするのは気のせいだ。
むしろ現実逃避か?
その間にも、池という名の地面は迫って来ている。
駄目だ!
どうしても、私が背中に羽根を生やして空を飛んでる姿が想像出来ない!
と、さっきメトロさんに抱き止められた時とは違って、乱暴に腰をがっしり掴まれた。
ワンドだ。
彼女は屋根の方へ上がりながら口を尖らせる。
「ちょっとー、チカやる気ないでしょー。落ちたら痛いよー」
そうだね、痛いだけじゃ済まないけどね。
というかワンドが始めた事じゃないのさ。
まあ、今も助けてくれたし、本気で私を墜落死させる気は無いんだろうけど。
「チカのお師匠はー、飛び方教えてくれなかったのー?」
「教えてくれないよ。メトロさん人間だし」
「えー、ウソだー」
「いや、ホントだし」
ワンドは目を見張る。
え、何でそんなに驚くの?
「あの人ー、チカのお父さんじゃないのー?」
は?
そんな訳あるかい!
仮に私の肉体が十六歳だとしたら、メトロさんが十三歳の時の子だよ!
あ、ギリギリあり得なくもなかった。
じゃなくて!
「私異世界から来たんだから、親子はあり得ないでしょ」
「あー、そうだよねー。あんまり似てるからー、お父さんかと思っちゃったー」
ワンドは舌を出す。
テヘペロ、と幻聴が聞こえた。
しかしそんなに似てるのか、メトロさんと今の私。
ルードのお城に鏡はあったし、水場を覗けば自分の顔は見えるけど、自分の顔の筈なのに自分の顔じゃないものが映るから、これまで直視出来なかったんだよね。
あ、良い事思い付いた。
この身体はメトロさんなんだと思おう。
メトロさんが女体化して若返ったんだって事にしよう。
そして、メトロさんに翼が生えて飛べる想像をしよう。
うん、それなら行けそうな気がする!
「ありがとうワンド」
「ありがとうって何がー?」
「お陰で飛べそうって事」
「そうなのー? じゃあ離すよー」
「うん」
腰を掴んでいた手が離れて、私は三度目の滑空を開始した。
両手を広げて風を受ける。
メトロさんの背中に生えるなら純白の翼だ。
どこかの絵画で描かれているような、神々しい輝きを放つ白い翼。
その翼で空を舞うメトロさんは、さぞかし美しいだろう。
背中でバサリと音がして、私の身体が空中に静止した。
首を回すと、背後に大きな白い翼が見える。
成功だ。
やった、メトロさんが飛んだ!
と思った瞬間、魔力切れで私は再びピラニアっぽい鯉の待つ池へとダイブしたのだった。




