38.主婦、後悔する
危なかった。
心臓が潰れるかと思った。
私は『魔王』の会心の笑みにやられた、のではなく、その笑みを目撃したメトロさんに心臓をぎゅーっとやられたのである。
照れ隠しかよ、と微笑ましい気持ちもなくはないが、一歩間違えると三途の川を渡っていた。
実際、恐らく急に真っ青になって動かなくなった私を、『魔王』は慌てて部屋に運んで介抱してくれた。
私の中の『魔王』のイメージがどんどん崩れて行っているのは、もう仕方のない事なんだろうな。
いやはや、メトロさんには脱帽です。
魂だけの存在でも、あんな事できるのね。
いや、多分普通ならできないと思うんだけど。
私に元々魂がないからできた事なんじゃないかと、私は一人で勝手に推測している。
別に、だからどうという事もない。
そんな訳で、以降それ以上の話は聞けずに私は布団に寝ていた。
しばらくは動けなかったものの、回復して来るとただ寝ているのが辛くなる。
そこで私は、『魔王』に言われた通り彼の書いた雑記を読む事にした。
とは言えあまり集中力も保ちそうにない。
パラパラとめくって適当に止めた所から読んで行こう。
まず手始めにこのページから。
『モモタケモドキ
白い肌に桃のように細かな毛が生えたキノコ。主に森に生える。
食用のモモタケと酷似しているが、高い毒性があるため食用としては流通していない。ワライタケの類に似た作用があるが、遥かに強い毒を持つため死に至る事も稀ではない。
モモタケモドキには微量の魔力が含まれているが、モモタケとの区別は容易には付け難い。モモタケか否かを見極めるには、魔物の嗅覚もしくは高い魔力識別能力が必要となる。
モモタケが非常に美味なため、間違えて口にし死に至る事故が多い。また、生還したものの、モモタケより美味だったからと再びモモタケモドキを食し、結果死亡したという事例もある。』
綺麗なイラスト付きだ。
思わずかじりつきたくなる、桃に似たフォルム。
これ、ルードがここへ来る道中の森で食べたやつだ。
命は取り止めたものの、事態を収束するのにアホな時間を費やした。
そういえば、前にも食べた事があるとか言ってたな。
まだ続きがある。
『先日ルドルフが間違えて食べてからというもの、ひたすらまた食べたいと呟いては家臣にたしなめられている。
そんなに死にたいのか、あの馬鹿は。』
……。
これが書かれたのって、彼が『魔王』になる前の筈だよね。
このルドルフは多分、何代か前のルドルフだ。
ルードのご先祖様もあんな風にアホだったのか。
まあ良いや。
気を取り直して別のページを開く。
『これで、ルドルフと何度目の手合わせだろうか。
相変わらず大振りで隙だらけだ。小回りのきく者が相手であれば、勝つ事はできないだろう。
実際、彼は私に勝った事がない。
何度も同じ手に引っかかるのが、わざとに思えてくる。もしわざとであったとしても、逆に何を考えているのか全く分からない。
私の何倍も生きているのだから、何か思惑でもあるのか。それともただの馬鹿なのか。』
これも、多分ルドルフのご先祖様の事だ。
何倍も生きてるって、『魔王』がこの時何歳か知らないけど、例えば二十歳だったとしたら三倍で六十歳。
この時すでにおじいちゃんだったんじゃないの。
だったら体力も落ちてるだろうし、負けても仕方ない気がする。
さて、他のページ。
『ルドルフが『勇者』になれと言い出した。
私にその気はない。この世界のいざこざに興味はないし、この国で寝食を保証してくれさえすれば手出しも口出しもしない。初めからそういう約束だった筈だ。
それなのに、どうして今更こんな事を言い出すのか。
奴は私の問いかけに答えず、君こそが『勇者』に相応しいなどとほざいた。
何百年も生きているのだから、何か思惑があるのだろう。しかし、私にはそれが何か分からない。』
ん?
何百年も生きている……?
どういう事?
ルドルフは人間じゃないって事?
ページをめくる。
『そもそも、ルドルフはどうして『魔王』を斃そうとしているのか。
魔物のほとんどが、人間を食べる事なく一生を終える。好んで人間を食す者もいるが、それをいけない事だと諭すと簡単にその行為をやめた。
魔物は子供のように純真無垢なのだ。
これは何度も森の先へ行き魔物と交流した上での結論だ。
そんな魔物の長たる『魔王』を、斃す理由が見つからない。』
だんだん何を言ってるのか分からなくなってきた。
魔物が人間を食べるから、人間は自分たちの身を守るために魔物を駆逐しようとしていたんじゃないの?
ここには、それと逆の事が書いてある。
さらに読み進める。
『人間は『契約』により魔物の力を行使できる。『契約』のために、どんな姑息な手段でも平気で使う。
それなのに、人間は魔物を忌み嫌う。
魔物だけではない。魔物と人間の混血、魔物の力を行使し闘う『勇者』も排除の対象だ。
調べたところ、これまで『勇者』になった者四十人の内、半数が人間の手により死に至っている。自らの手で命を絶った者を含めると、四分の三だ。
残りは魔物との闘いで命を落としたようだ。
人間は、表面的には『勇者』の訪れを歓喜を以って受け入れる。しかし、水面下では『勇者』をどうにかして自分たちの生活圏から遠ざけようとする。
この国の人間にとって、魔物はそれ程までに忌むべき存在なのだ。
私には到底理解できない。』
私にも到底理解できない。
『勇者』は魔物から人間を護ってくれる筈なのに、魔物の力を使うからって理由だけで排除?
え、あれ?
もしかして、メトロさんも魔力を使うからって理由で人間に殺されたって事?
そんな事ってあるの?
それ以上読み進められなくなった私は、本を閉じた。
心臓が早鐘を打っている。これはメトロさんのせいじゃない。
手が震える。自分の手でそれを抑え込むと、私は一つ息を吐いた。
あの町を出る前にこの本を読んでいれば、あるいは止められたかも知れない。
私があの時これを知っていれば、メトロさんは今も私の隣にいたかも知れない。
後悔が先に立たない事なんて知ってる。
それでも後悔せずにはいられなかった。
私は滲んで見えなくなった目を閉じる。
「ごめんなさい」
口をついて出たのは、その言葉だった。
モモタケモドキは実在のキノコではありません。




