31話 罠をかけて罠にかかる
何が起こった。何故急に目が見えなくなった。
急に奪われた視界にゆづりは動転しながらも、目を押さえる。すると、ベタベタと糊のようなものが手についた。
「な、なにこれ……」
「ゆづり」
不可解な現象に、右往左往していたゆづり。その肩を掴んだのはノアだ。彼はゆづりに耳打ちしつつ、額を一回コツリと小突く。
すると、失われていたゆづりの視界が回復した。いつも通り、目の前にあるものを映す、正常な瞳に。
「あ、ありがと……」
目が元に戻った。瞼にこびりついていたベタつきも失せた。
ゆづりがそう感動していた最中、ノアが急に動き出す。彼は急に「下がれ」と呟いたかと思うと、乱暴にゆづりの肩を押したのだ。
「ちょ…!」
無防備な肩をつつかれたゆづりは、なす術なく後ろへ倒れる。幸い床に敷いてあるカーペットが衝撃を和らげてくれたため、痛くはない。それでも、動揺はしてしまう。
急に視界が奪われたと思ったら、ノアには突き飛ばされたのだ。とっくに理解の範疇は越えている。
「もう…」
それでも、今やるべきことは理解している。ノアの声が低かったのだ。いつもよりは一オクターブは下だった。
おそらく異常事態なのだろう。ノアが冷静さを失う何かが、現在進行形で起きているようだ。
だから、ゆづりはノアの指示通りに後ろへ下がった。カーペットに両手と膝をつけたまま、赤ん坊のように床を這って逃げた。
そして、そのまま廊下に出てしまおうと、必死に手足を動かしていたが。
「……あ…?」
その途中で何故か急に力が抜けた。それにつられるよう、へなへなと尻を絨毯につけてしまう。体に一切力が入らない。
「おい、ゆづり。どうし…」
「余所見とはいいご身分だな」
慌てふためくノアの言葉を、一言鋭い声が遮る。怨念や憎悪、殺意といった全ての負の感情を煮詰められた声。こないだ聞いた、あの人の声が。
「イルゼ……」
耳馴染む声にゆづりがどうにか顔を上げれば、開け放たれた扉の前、燕尾服を着たイルゼが立っていた。
彼は相変わらずの不機嫌面だ。眉間に皺を寄せ、目にこちらへの嫌悪感を滲ませている。
しかし、今は昨日や一昨日会った時よりも、怒りが増して、やけにこちらを嫌っているように見えた。
「貴様、いい加減にしろよ」
その燃え上がるイルゼの殺意の先にいるのは、ノアだ。イルゼはゆづりのことは一瞥もくれず、手前にいるノアのことを睨んでいた。
そのことにノアも気付いているらしい。彼はイルゼの視線を浴びて、挑発的に微笑んでいた。
「悪いな。そんなに力を出した気は無かったが、耐えられなかったか」
「黙れ。この破壊魔が」
「謝る謝る。ごめんな!」
ノアは両手を合わせて、頭を下げる。しかし、彼に全く謝意はない。むしろイルゼを煽っているようにしか見えなかった。
「………」
ふざけた態度のノアに、イルゼは何も言わない。代わりに、艶の光るエナメルシューズで、一回トンと床を叩いた。
直後、ゆづりを支えていたカーペットが消える。手と膝を預けていた床が、忽然と、最初から無かったように消滅したのだ。
「な、何?!」
消えた床の代わりに出現したのは、黒い渦。グルグルと円を描いて回転する漆黒は、あっという間にゆづりを呑み込む。そして、それだけでは腹が満たされぬとでも云うように、傍にいたノアも取り込んだ。
「ちょ……?!」
「………」
ブラックホールに巻き込まれてしまったと取り乱すゆづりに対し、ノアは一切狼狽していなかった。彼は堂々と腕を組んだまま、大人しく暗闇に引き摺り込まれていた。
一体ノアは何を考えているのだ。
奇怪な顔をしているノアに、ゆづりは彼の真意を探る視線を送る。しかし、彼の心を見ることは叶わない。
既にゆづりの意識は、空気に溶けるように消えてしまっていたのだから。
****
次にゆづりが目を開けた時、目の前に広がっていたのは黒い世界だった。文字通り、真っ暗で何も見えない暗闇。白い蜘蛛の糸が時折ちらつく以外には何もない、孤独な場所。
「こ、ここは…」
「火敵星だぞ」
「うわっ?!」
空虚だったゆづりの視界に、突如として潜り込んできたノアの顔。お化けさながらの登場に驚いたゆづりは、反射的にノアの顔面にビンタをかましそうになった。が、その前に足が縺れてしまい、尻餅をついていた。
「おいおい、大丈夫か?」
ノアは呆れたような顔をして、ゆづりに左手を差し出す。反対の右手には光源になるものでも持っているのか、淡い光が漏れていた。そして、その光がノアの全身をほんのりと掴ませる。
先程と何一つ変わらぬノアの容姿に、ゆづりは我を取り戻し、彼の手を掴んだ。すると、ノアに「体調はどうだ?」と顔を覗かれた。
「だ、大丈夫だよ。それより、ここは?」
「アイツ…イルゼの作った異世界だろうな」
ノアは近くにあった蜘蛛の糸を指に絡め取ると、ゆづりに見せてくる。ネバネバと指に纏わり付くそれは、イルゼに拘束された時に使われた糸とよく似ていた。
暗闇に残るイルゼの糸。そして、ノアの冷静な説明。二つが合わさって、ゆづりはようやく現状を理解する。
自分たちは、イルゼによって作られた世界に拉致られてしまったのだ、と。
「ヤ、ヤバいことになってるね」
「いいや、計画通りだよ」
「えっ?」
「俺様のやってたことは扉を開けることじゃない。アイツを苛立たせて中継場に来てもらうことだったんだよ」
「それってどういう…?」
いまいち合点のつかないノアの説明。この状況を歯牙にもかけない彼の有り様。
そのどちらも理解できず、ゆづりは怪訝な顔をしてしまう。すると、ノアはフフンと鼻をならしながら、己のローブの内側を漁った。そして、先ほど使っていた釘を取り出し、宝物を見せつけるかのようにゆづりの前で見せつける。
「この釘は魔法器具だ。黒い釘に魔法を打てば、ペアの赤い釘に詠唱が伝わって魔法が発動するっていう道具。ちなみにお値段、三万ペール。ニホンだと多分五万くらいだな」
「へぇ、凄いね。高級品だ。……それで、釘とイルゼが何の関係が?」
「簡単だよ。前に王城に行った時、赤い釘を落としてきたんだ。だから、黒い釘に魔力を込めれば、王城で魔法が発動する。俺様の魔法で城が破壊されれば、流石のイルゼでも会いに来るだろ?で、その時に扉が開くって算段だ」
「な、なるほどね」
釘を火敵星の扉に打ち続けていたのは、イルゼへの嫌がらせだったらしい。それで、ノアの悪戯に激昂したイルゼが、中継場へ駆け込みをし、さっきのようなことになったようだ。
「ちなみに、城を荒らす時どんな魔法を使ってたの?」
「そこまで凄いもんじゃないぞ。ただ、爆発を起こしたり、暴風を吹かせたり、雨を降らせたり…そんなもんだな」
「………」
突如、調度品等々が爆破され、強風に室内を荒らされ、その上に雨にまで襲われた王城。
おそらく大惨事になっているだろう。少々、いやかなりイルゼが気の毒だ。あぁも殺意をぶつけてきても当然だといえる。
冷酷無惨なノアの所業に、ゆづりは思わずジト目で彼を見つめてしまう。
すると、ノアは気まずそうに咳払いをし、「それ以外方法がなかっただろ」とボヤく。そして、気を取り直すように手を差し出してきた。
「ほら、今からここを出るぜ。掴まれよ」
「え、出れるの?」
「あぁ。これしきの結界に怯える必要はない。俺様なら簡単に壊せるからな。何せ天才だし」
ノアはニヤリと笑う。得意気で強かなその笑みは、ゆづりの憂いを遥か彼方へ吹き飛ばす。そして、宙ぶらりんになっていたゆづりの手を、ノアの手に置かせた。
「いくぜ」
ノアはゆづりの手を握ると、反対の手の掌を天に掲げる。すると、周りの空気が一気に重くなり、バチバチと静電気のような音を立て出した。
今から珍しいものが見れる。地球なんかじゃ絶対に見れない魔法が拝める。
あからさまに変貌した空気に、ゆづりは人知れず唾を飲み込む。そして、彼の大規模で派手で魅力的な魔法を、この目に焼き付けようとしたのだが。
「………ノア?」
いくら待てども待てども、何も起きない。起きる予感さえもしない。シンと静まり帰った空気が、ジクジクとゆづりの肌を削っていくだけだった。
漂う不穏な雰囲気。隣からフツフツと溢れている負のオーラ。
沈黙に耐えかねたゆづりは、恐る恐るノアの様子を伺う。すると、彼は呆然自失といった様子で、手を固めたり広げたりを繰り返していた。
「ノ、ノア。大丈夫?」
「おうおう、大丈夫だ。無問題、万々歳、平気平気…」
ノアはブツブツと前向きな言葉を呟いている。しかし、彼の顔には動揺がこれでもかというほどありありと描かれている。加えて、じんわりも汗ばんでもいた。
もちろん、その汗が暑さから来るものではないのは明白で。
「あ、あの…ノアさん…?」
「うん。無理だ。出れない」
「……は?」
「ヤバいことになってるな」
ノアはけろっとした顔で、己の計画の失敗を伝えたのだった。
登場人物
ゆづり…主人公。八星を作ったとされる『創造者』を探している。
ノア…水魔星の神。ゆづりを協力者。魔法が強い。
アリーセ…火敵星の神こと『統治者』。呪いにかけられており体の自由を奪われている。
イルゼ…統治者の眷属。ゆづりとノアのことは嫌い。




