第92話:『最後の宴と、それぞれの仮面』
運命の軍議を、明日に控えた夜。
王都は熱病に浮かされたような、異様な熱気に包まれていた。
久しぶりに顔を揃えた地方貴族たちは、豪華な屋敷のあちこちで盛大な宴を開いている。弦楽器の甘い調べが夜気に溶け、絹のドレスが擦れる音、グラスの触れ合う硬質な響きが、そこかしこで生まれては消えていく。
琥珀色の酒が注がれ、華やかな仮面が笑みを交わす。
その裏側で、誰もが互いの腹を探り、自らの秤で利益を計算していた。
「――明日の軍議、主導権を握るのは一体誰か」
「――国王陛下はご正気なのか? それとも老いぼれの最後の悪あがきか」
「――なぜバルガス侯爵が来ない? あの老獪な狐が、この好機を逃すはずが……」
貼り付けた笑みの下で、疑念と野心が黒い渦を巻く。
明日、この国の歴史が大きく動く。その予感が、肌を粟立たせるように満ちていた。その激動の中でいかに生き残り、より大きなパイを手に入れるか。彼らの頭は、そのことで一杯だった。
◇◆◇
その喧騒が嘘のように静まり返った賢者の庵。
私はベッドに身を横たえ、目を閉じていた。枕元に置かれた『囁きの小箱』が、低い唸りを上げてひっきりなしに振動し、『蜘蛛の糸』からの報告を届け続ける。
『……はい。王宮に集った貴族は百二十名。うち第一王子派の中核と目される者は三十名。彼らは全員、武装した私兵を密かに王宮近くへ手引きしている模様です』
雑音の向こうから、クラウスの感情を排した声が響く。
「……結構です。全て想定通り」
熱に浮かされた喉で、私はかすれた声を絞り出した。
「アルフォンス王子とハヤトさんたちへの伝令は?」
『はっ。いつでも動けるよう、準備は整っております』
「……頼みましたよ、クラウスさん」
通信が切れ、部屋に静寂が戻る。
盤上の駒は、すべて揃った。あとは夜明けと共に、舞台の幕が上がるのを待つだけだ。
◇◆◇
王都の裏通りに潜む隠れ家。
黴と湿気の匂いが染みついた一室で、ハヤトは煤けた鏡の前に立っていた。
身にまとっているのは、マキナが試作したという最新式の軽量強化服。黒を基調とした装束が、鍛え上げた肉体に吸い付くようにフィットし、彼の心を昂らせる。
その手には、顔の半分を覆う黒曜石の仮面が握られていた。
(……ふっ。悪くない……!)
鏡に映る自分の姿に、彼は完全に酔いしれていた。
滑らかな仮面を、ゆっくりと顔に装着する。ひやりとした無機質な感触が肌を走り、視界は黒く縁取られた。外界の音が遠のき、自らの呼吸音だけがやけに大きく響く。この匿名性が、この神秘性が、たまらない。
鏡の前で、おもむろに腕を組み、少し斜に構える。
(……闇に生まれ、闇に生きる……。だが、俺が斬るのは悪のみ……)
次に、マントを翻すように振り返る。
(……我が名は誰も知らなくていい。ただ、悪が滅びれば、それでいいのさ……)
一つ一つのポーズと、脳内で再生されるキザなセリフ。
もし前世の友人たちが見ていたなら腹を抱えて笑い転げるだろう光景も、今の彼にとっては最高にクールな「正義のヒーロー」の姿だった。
復讐でも憎しみでもない。「正義のヒーロー」として悪を討つ。その単純明快で「カッコいい」役割が、今の彼の心にしっくりときていた。
「――ねえ。いつまでそれ、やってるの?」
部屋の隅の椅子に深く腰掛けたマリアが、長い脚を組み替えながら冷え冷えとした声を投げかけた。
「っ!」
ヒーローになりきっていたハヤトは、文字通り飛び上がった。仮面の下で顔が燃えるように熱くなるのがわかる。
「な、何だよ。準備運動は必要なんだよ」
「そう。明日、カッコいいセリフの途中で舌を噛まないようにね、『黒曜の疾風』さん?」
「う、うるせぇ!」
マリアの容赦ないツッコミに、ハヤトは顔を真っ赤にする。だが、彼女の唇の端には微かな笑みが浮かび、挑発的な光を宿した瞳の奥では、久しぶりの大舞台への期待が炎のように揺らめいていた。
(……ふん。見てろよ、マリア。明日、この俺が本当のヒーローを見せてやる……!)
彼は再び鏡に向き直ると、誰にも聞こえない囁き声で、明日の決め台詞を反芻し始めるのだった。
「(……あ、悪が……栄える、ためし……なし……! ……よし、完璧だ!)」
◇◆◇
時を同じくして、王宮の最奥。
全ての喧騒から隔絶された国王の私室で、レオナルドは一人、蝋燭の揺れる光の中に佇んでいた。
彼の視線は、壁に掛けられた一枚の肖像画に注がれていた。そこに描かれた最愛の妻、王妃エリザが、時を超えて優しい微笑みを投げかけてくる。まるで、「あなたなら大丈夫よ」と、その唇が動いたように見えた。
明日、自分は王として最後の役を演じる。
それはただの死ではない。腐りきった国を一度終わらせ、新たな未来を始めるための、王としての最後の儀式なのだ。
視線を隣に移す。そこには、利発そうで、少し気の弱そうな少年――第二王子エドワードの在りし日の姿があった。聡明で心優しい息子。腐敗した貴族どもの謀略に斃れた若き命。王でありながら、父でありながら、何もできなかった。その無力感と罪悪感が、何年もの間、彼の魂を蝕み続けてきた。
「……エドワード……すまない……」
唇から、か細い懺悔が漏れる。
そして、もう一人の息子の顔が浮かぶ。
兄の死と父の不甲斐なさに絶望し、宮廷を去った三番目の息子、アルフォンス。あの時、なぜもっと強く引き止められなかったのか。
「……だが、それも明日で終わりだ」
老いた背筋を伸ばし、レオナルドはゆっくりと立ち上がった。その双眸に、もはや迷いの色はない。
「見ていてくれ、エリザ。そして、エドワードよ」
彼は肖像画にそっと触れた。
「私は最後に、王として死ぬ。……いや、王として生き返るのだ。アルフォンスが、お前たちの分まで誇り高く生きられる、新しい国をその手で創るために」
手元には、リナから託された『囁きの小箱』が静かに置かれている。未来へ、息子へと繋がる唯一の命綱。彼はその冷たい感触を確かめるように、そっと指でなぞった。
運命の夜明けは、すぐそこまで迫っている。
それぞれの仮面をつけた役者たちが、静かに出番を待っていた。物語の、最後の幕が上がろうとしていた。




