第66話:『黄昏の国境越え』
『涙の砦』の城壁が丘の向こうに見えなくなってから、数時間が経っていた。
私たちを乗せた小さな旅の一団は、帝国と王国を隔てる緩やかな丘陵地帯を進んでいる。もはや帝国の整備された街道ではない。獣道とも呼べない荒れ地では、剥き出しの岩が車輪を跳ねさせ、ぬかるみが痩せた馬の蹄を容赦なく捕らえた。吹き抜ける風が乾いた土埃を運び、幌馬車の隙間から入り込んでくる。
「――くっ……!」
不意に車輪が大きな石に乗り上げ、私の体は為す術もなく宙を舞った。次の瞬間、硬い木製の座席に叩きつけられ、全身に鈍い痛みが走る。思わず舌を噛んだ。じわりと血の味が口に広がる。
「リナ様! 大丈夫ですか!?」
隣に座るヴォルフラムが、慌てて私の体を支えてくれた。その手は力強く、そして温かい。
「……だ、大丈夫……。また、舌を噛んだだけ……」
涙目で答える私に、彼女は心配そうな視線を向ける。もう何度目になるか分からない衝撃に、体中が悲鳴を上げていた。
今の私たちの姿は、『天翼の軍師』一行の威厳とは似ても似つかない。
古びた幌馬車を一台、それを引くのは軍馬ではなく、あばら骨の浮いた荷馬だ。御者台には行商人の親方を装ったクラウスが手綱を握り、幌の中では薬師の孫娘を演じる私と、その用心棒兼姉代わりであるシスター見習いのヴォルフラムが、絶え間ない揺れに耐えている。馬車の後ろからは、無口な傭兵に扮した『影の部隊』の隊員二人が、黙々とついてきていた。
完璧な偽装。だが、そこには快適さなどひとかけらもなかった。
ああ、帝都の宿舎にある、羽毛のようにふかふかのベッドが恋しい。セレスティーナ様が淹れてくれた、湯気の向こうで優しく微笑む、あの温かい紅茶が飲みたい。
(……帰りたい……)
私は、早くもホームシックの悲鳴を上げていた。
「……見えました」
不意に、御者台のクラウスが低い声で呟いた。
幌の隙間から前方を覗くと、丘の向こうに王国の国境検問所が小さく見えた。粗末な木の柵と、掘っ建て小屋のような建物。数人の兵士が、まるで案山子のようにやる気なく槍を手に立っている。
「リナ様。これより私が全て話します。あなたはただ、怯えた子供のふりをしていてください」
クラウスが振り返り、その鋭い目で私に念を押す。
「ヴォルフラム殿も、決して抜剣なさいませんよう。……ここの連中は、金で簡単に転びます」
「……承知した」
ヴォルフラムは不満を隠せない顔で頷いた。彼女の強い正義感が、この腐敗した空気にうずいているのが手に取るようにわかる。
馬車はゆっくりと検問所に近づいていく。
案の定、あくびを噛み殺した兵士の一人が、錆びた槍の穂先を面倒そうにこちらへ向けた。
「おい、止まれ。どこへ行く?」
その濁った目が私たちの荷を値踏みし、次いでヴォルフラムの整った顔立ちを舐め回すように見た。いやらしい光が、その目に宿る。
クラウスはひらりと馬車から飛び降りると、人の良い商人の笑顔を顔に貼り付けた。
「これはこれは、兵隊さん、ご苦労様です。我々はリューンへ向かうしがない薬売りでしてね。……ああ、これはほんの心ばかりのご挨拶で……」
彼は懐から数枚の銀貨を取り出すと、兵士の汚れた手のひらにそっと握らせた。
指先で銀貨の重さを確かめた兵士は、途端に口元を緩める。
「……ふん、薬売りか。最近この辺りも物騒だからな。気をつけな」
(……ちょろい)
あまりの簡単さに、私は逆にこの国の行く末が不安になった。だが、ことはそれだけで終わらない。
兵士の上官らしき男が、小屋から腹を揺すって出てきたのだ。そして、幌の中に座るヴォルフラムの姿を認めると、その口元に下卑た笑みが広がった。
「……待て。そのシスター、良い女じゃねぇか。おいお前、少し俺たちの詰所で話でもしていかねぇか?」
侮辱的な言葉に、ヴォルフラムの呼吸が止まった。
その肩が微かに震え、清廉なシスターの装束の下で、鍛え上げられた筋肉が怒りに強張るのがわかる。白く美しい指が、ゆっくりと腰の剣の柄へと伸びていく。
(やばい!)
私が青ざめた、その瞬間だった。
「――まあ旦那様。この子はご覧の通り、神に仕える身。それに、ひどい人見知りでして……」
クラウスがさっとヴォルフラムの前に立ちはだかった。その背中は、決して大きくないのに、頼もしく見えた。
彼は先ほどよりも一枚多い銀貨を上官の手に握らせながら、悪戯っぽく声を潜めて耳元で囁く。
「……それにこの子、実は今、流行り病でしてね。うつると、男の大事なところが大変なことになりますよ?」
その一言で、上官の顔色が見る間に変わった。
彼は汚いものでも払うかのように手を振ると、「ちっ! 行け! さっさと行っちまえ!」と吐き捨てた。
馬車は何事もなかったかのように、再びゆっくりと動き出す。
王国の国境を越えた。しかし、幌の中の空気はまだ凍りついたままだ。
「……申し訳ありません、リナ様。私としたことが、つい感情的に……」
ヴォルフラムが、悔しそうに唇を噛んでいる。
「ううん、いいの。……私、さっきすごく怖かったから。ヴォルフラムさんがぐっと我慢してくれて、安心した。……ありがとう」
私は彼女の大きな手を、自分の小さな手でそっと握った。
私たちはもう、帝国の庇護の下にはいない。
ここは、無法と腐敗が支配する敵地なのだ。
西の空が、まるでこの国の黄昏を象徴するように、どす黒い血の色に染まっていく。風が荒野の砂塵を巻き上げ、私たちの頬を冷たく撫でた。
本当の旅は、今、始まった。




