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ようこそ、最前線の地獄(職場)へ。 私、リナ8歳です ~軍師は囁き、世界は躍りだす~  作者: 輝夜
第五章:『忘れられた王子と蜘蛛の糸』

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第66話:『黄昏の国境越え』

 

『涙の砦』の城壁が丘の向こうに見えなくなってから、数時間が経っていた。


 私たちを乗せた小さな旅の一団は、帝国と王国を隔てる緩やかな丘陵地帯を進んでいる。もはや帝国の整備された街道ではない。獣道とも呼べない荒れ地では、剥き出しの岩が車輪を跳ねさせ、ぬかるみが痩せた馬の蹄を容赦なく捕らえた。吹き抜ける風が乾いた土埃を運び、幌馬車の隙間から入り込んでくる。


「――くっ……!」


 不意に車輪が大きな石に乗り上げ、私の体は為す術もなく宙を舞った。次の瞬間、硬い木製の座席に叩きつけられ、全身に鈍い痛みが走る。思わず舌を噛んだ。じわりと血の味が口に広がる。


「リナ様! 大丈夫ですか!?」

 隣に座るヴォルフラムが、慌てて私の体を支えてくれた。その手は力強く、そして温かい。

「……だ、大丈夫……。また、舌を噛んだだけ……」

 涙目で答える私に、彼女は心配そうな視線を向ける。もう何度目になるか分からない衝撃に、体中が悲鳴を上げていた。


 今の私たちの姿は、『天翼の軍師』一行の威厳とは似ても似つかない。

 古びた幌馬車を一台、それを引くのは軍馬ではなく、あばら骨の浮いた荷馬だ。御者台には行商人の親方を装ったクラウスが手綱を握り、幌の中では薬師の孫娘を演じる私と、その用心棒兼姉代わりであるシスター見習いのヴォルフラムが、絶え間ない揺れに耐えている。馬車の後ろからは、無口な傭兵に扮した『影の部隊』の隊員二人が、黙々とついてきていた。


 完璧な偽装。だが、そこには快適さなどひとかけらもなかった。

 ああ、帝都の宿舎にある、羽毛のようにふかふかのベッドが恋しい。セレスティーナ様が淹れてくれた、湯気の向こうで優しく微笑む、あの温かい紅茶が飲みたい。

(……帰りたい……)

 私は、早くもホームシックの悲鳴を上げていた。


「……見えました」

 不意に、御者台のクラウスが低い声で呟いた。

 幌の隙間から前方を覗くと、丘の向こうに王国の国境検問所が小さく見えた。粗末な木の柵と、掘っ建て小屋のような建物。数人の兵士が、まるで案山子のようにやる気なく槍を手に立っている。


「リナ様。これより私が全て話します。あなたはただ、怯えた子供のふりをしていてください」

 クラウスが振り返り、その鋭い目で私に念を押す。

「ヴォルフラム殿も、決して抜剣なさいませんよう。……ここの連中は、金で簡単に転びます」

「……承知した」

 ヴォルフラムは不満を隠せない顔で頷いた。彼女の強い正義感が、この腐敗した空気にうずいているのが手に取るようにわかる。


 馬車はゆっくりと検問所に近づいていく。

 案の定、あくびを噛み殺した兵士の一人が、錆びた槍の穂先を面倒そうにこちらへ向けた。

「おい、止まれ。どこへ行く?」

 その濁った目が私たちの荷を値踏みし、次いでヴォルフラムの整った顔立ちを舐め回すように見た。いやらしい光が、その目に宿る。


 クラウスはひらりと馬車から飛び降りると、人の良い商人の笑顔を顔に貼り付けた。

「これはこれは、兵隊さん、ご苦労様です。我々はリューンへ向かうしがない薬売りでしてね。……ああ、これはほんの心ばかりのご挨拶で……」

 彼は懐から数枚の銀貨を取り出すと、兵士の汚れた手のひらにそっと握らせた。

 指先で銀貨の重さを確かめた兵士は、途端に口元を緩める。

「……ふん、薬売りか。最近この辺りも物騒だからな。気をつけな」


(……ちょろい)

 あまりの簡単さに、私は逆にこの国の行く末が不安になった。だが、ことはそれだけで終わらない。

 兵士の上官らしき男が、小屋から腹を揺すって出てきたのだ。そして、幌の中に座るヴォルフラムの姿を認めると、その口元に下卑た笑みが広がった。

「……待て。そのシスター、良い女じゃねぇか。おいお前、少し俺たちの詰所で話でもしていかねぇか?」


 侮辱的な言葉に、ヴォルフラムの呼吸が止まった。

 その肩が微かに震え、清廉なシスターの装束の下で、鍛え上げられた筋肉が怒りに強張るのがわかる。白く美しい指が、ゆっくりと腰の剣の柄へと伸びていく。

(やばい!)

 私が青ざめた、その瞬間だった。


「――まあ旦那様。この子はご覧の通り、神に仕える身。それに、ひどい人見知りでして……」

 クラウスがさっとヴォルフラムの前に立ちはだかった。その背中は、決して大きくないのに、頼もしく見えた。

 彼は先ほどよりも一枚多い銀貨を上官の手に握らせながら、悪戯っぽく声を潜めて耳元で囁く。

「……それにこの子、実は今、流行り病でしてね。うつると、男の大事なところが大変なことになりますよ?」


 その一言で、上官の顔色が見る間に変わった。

 彼は汚いものでも払うかのように手を振ると、「ちっ! 行け! さっさと行っちまえ!」と吐き捨てた。


 馬車は何事もなかったかのように、再びゆっくりと動き出す。

 王国の国境を越えた。しかし、幌の中の空気はまだ凍りついたままだ。

「……申し訳ありません、リナ様。私としたことが、つい感情的に……」

 ヴォルフラムが、悔しそうに唇を噛んでいる。

「ううん、いいの。……私、さっきすごく怖かったから。ヴォルフラムさんがぐっと我慢してくれて、安心した。……ありがとう」

 私は彼女の大きな手を、自分の小さな手でそっと握った。


 私たちはもう、帝国の庇護の下にはいない。

 ここは、無法と腐敗が支配する敵地なのだ。


 西の空が、まるでこの国の黄昏を象徴するように、どす黒い血の色に染まっていく。風が荒野の砂塵を巻き上げ、私たちの頬を冷たく撫でた。

 本当の旅は、今、始まった。


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― 新着の感想 ―
リナちゃん、ヴォル犬ちゃんに甘いこと言っちゃったらどんどん過保護な行動をしはじめちゃうよ(*´ω`*)
「……それにこの子、実は今、流行り病でしてね。うつると、男の大事なところが大変なことになりますよ?」 その一言で、上官の顔色が見る間に変わった。 彼は汚いものでも払うかのように手を振ると、「ちっ! …
丘陵と言えば低い山や草の生い茂った丘の連なり等が思い浮かびます。いきなり荒地を通って車輪が跳ねたり、ぬかるみを通って馬の蹄(足)が取られたり、土埃や砂塵舞う荒野にというのは少し場面や植生、気候などの環…
2025/08/27 06:43 一般通過読者
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