第40話:『将軍の祝杯と軍師の愚痴』
荘厳にして気恥ずかしい叙任式が終わり、大謁見の間の重い扉から解放されたグレイグは、待ち構えていた旧知の老将軍たちに、あっという間に取り囲まれた。
皺の刻まれた顔、輝くいくつもの勲章。彼らは皆、帝国の歴史そのもののような男たちだ。
「グレイグ中将! 昇進、心から祝うぞ!」
「はっはっは、これで我々もようやく安心して隠居できるというものだ!」
「して中将、あの『天翼の軍師』殿は一体いかなるお方なのだ? 先の戦での采配……まさに神業であったぞ」
尊敬と純粋な好奇に満ちた眼差しを一身に受け、グレイグは太陽のように豪快な笑い声を上げた。
「なに、ただの少し賢くて生意気で、そしてとんでもなく頑固な御仁だ」
彼はそこで言葉を切り、仲間たちの顔を一人一人見回す。
「……だが、その忠誠心と帝国を思う心は、この俺が保証する」
その声には、揺るぎない信頼が鋼のように込められていた。決してリナの正体を明かすことはない。だが、その言葉だけで十分だった。
「さあ、今宵は俺の奢りだ! 勝利と帝国の未来に、そして我らが軍師殿に祝杯をあげようではないか!」
湧き上がる歓声の中、力強い腕に担ぎ上げられるようにして、グレイグは祝宴の喧騒へと消えていく。彼もまた、新たな光の中へと歩み始めたのだ。
その頃。
黒歴史製造機のような絢爛な輿からようやく解放された私は、一人の少女リナとして、皇妃セレスティーナ陛下のお茶会に招かれていた。
場所はいつもの、甘い香りが風に乗って運ばれてくる庭園のガゼボ。午後の柔らかな陽光が、純白のテーブルクロスと、磨き上げられた銀食器をきらきらと照らしている。
「まあリナ、改めておめでとう。……『天翼の軍師』様?」
皇妃陛下が私の新しい称号を口にし、楽しそうに鈴を転がすように笑う。そのからかうような響きに、私はカチンと来て、むっと頬を膨らませた。
「……セレスティーナ様! もうその名前で呼ばないでください!」
「あら、どうして? 陛下直々に賜った、名誉ある称号ですのに」
「名前がすごすぎて恥ずかしいんです! 天翼って何ですか、天翼って! 私に羽なんか生えてません!」
私はテーブルに突っ伏して「うーっ」と唸る。目の前には、艶やかなチョコレートでコーティングされた最高級のケーキが鎮座しているというのに、今はそれどころではない。
皇妃陛下はそんな私の姿を、まるで駄々をこねる我が子を見るような、慈愛に満ちた目で見つめている。
「それに……」
むくりと顔を上げて愚痴を続けた。
「『鉄の馬』の開発も失敗続きなんです。この前も試作品が爆発して、私の大切なお金が綺麗な煙になって消えてしまいました……。もう、どうしたらいいのか……」
はぁ、と八歳の身体には似つかわしくない深いため息が漏れる。目の前の相手がこの国の母たる皇妃陛下であることも忘れ、私は日頃の鬱憤を洗いざらいぶちまけていた。
不思議なものだ。精神は三十路のはずなのに、この方の前にいると、必死に保っている『賢しい少女』の仮面がいともたやすく剥がされてしまう。
一通り私が愚痴を吐き出し終えるのを待って、皇妃陛下は優しく私の頭を撫でてくれた。その指先は驚くほど温かい。
「ふふ、大変ですわね、私たちの軍師様は。でも大丈夫。あなたならきっと乗り越えられますわ」
その声に、ささくれ立っていた心がふわりと解けていく。
そして皇妃陛下は、ふと何かを思いついたように、悪戯っぽく瞳を輝かせた。
「……ところでリナ、うちのユリウスはどうかしら?」
「えっ?」
「あの子ももう十歳。なかなかの好青年に育ってくれていると思うの。あなたのような賢くて可愛らしい娘と共にこの帝国を支えてくれたら、母としてこれほど嬉しいことはないのだけれど……」
「う、うわぁっ!」
思わずガタン、と音を立てて椅子を引く。
「と、ととと、とってもありがたいお話ですが、まだ全く考えられません!」
「そう? でも貴族の娘なら、このくらいの年齢で婚約することも珍しくないのよ?」
「わっ、私は孤児院の出です! 私の出自はご存じのはずですよねっ!」
しどろもどろになる私を見て、皇妃陛下は楽しそうに目を細める。
「ええ、もちろん。でも、どう考えてもあなたはそちらの枠には収まりませんわ」
その穏やかな声が、私の心臓を直接掴んだかのように、どきりと跳ねさせる。
「……教えてちょうだい、リナ。どこの八歳が、皇帝陛下を相手に堂々と献策などできるのかしら?」
「……うぐっ」
「それに、あなたのその立ち居振る舞いや判断力。かなりの高等教育を受けた令嬢のそれですわよ? いえ、軽くそれ以上かしら。一体どこで、その全てを学んだの?」
皇妃の視線が、真っ直ぐに私を射抜く。それは全てを見透かすような、深く、そして静かな湖の底を覗き込むような瞳だった。
(や、やばい! 前世で培った社会人マナーと付け焼き刃の知識が、完全に裏目に出てる!)
背中に、じっとりと冷たい汗が流れるのを感じた。
「……ま、まぁ皇妃様、それはその……か、勘違いで……」
「あら、そう? ……まあ、いいわ」
彼女はそれ以上追及せず、ふわりと微笑んだ。だが、その微笑みはこう語っているようだった。『あなたの本当のことを、いつか聞かせてちょうだいね』と。逃げ場のない、優しい宣告。
「……こ、皇妃様には、かなわない……」
私は観念してがっくりと肩を落とし、目の前のチョコレートケーキに、やけ食いのようにフォークを突き立てた。
後になって、皇妃陛下に対してあまりに非礼な態度を取ってしまったことを思い出し、一人で顔から火が出るほど赤面することになるのだが、それはまた、別のお話である。




