第37話:『軍師の迷いと謁見の願い』
マキナの工房への資金と人員の手配、そしてライナー率いる『影の部隊』の訓練メニュー作成。帝都に滞在しながらも私の仕事は山積みだった。
しかし、そんな多忙な日々の中でも私の心の奥底には、一つの重い靄がかかったままだった。
(この戦争はどこへ向かうのだろう……)
東部戦線は今や完全に帝国の優勢だ。このまま攻め続ければ、王国を滅ぼすことさえ不可能ではないだろう。
私の頭の中には、そのためのいくつかの非情なシナリオがすでに完成していた。
王国の主要農産地帯に家畜の疫病を密かに流行らせ、大規模な食糧危機を引き起こす『兵糧攻め』。
王国上層部の腐敗を暴く情報を流し、民衆の不満を煽って内乱を誘発させる『内部崩壊』。
そして何より、あの『剣聖』を社会的に抹殺し、王国の精神的支柱をへし折る狡猾な『離間の計』。
どれも実行すれば、王国の息の根を止めるには十分すぎるほどの効果を持つだろう。
だが、そのどれもがあまりにも多くの罪のない人々を巻き込む。
飢えに苦しむ民衆の顔、内乱で血を流す人々の姿。そんな光景を思い浮かべるたびに、私の心は鉛を飲み込んだように重くなった。
前世の平和な日本で生きてきた私にとって、それは決して踏み越えてはならない一線のように思えた。
「……閣下」
ある夜、私は執務室で報告書を読んでいたグレイグを訪ねた。
「ん? どうしたリナ。また何か厄介なことでも思いついたか?」
「いえ……少しお話が」
私はセラさんが淹れてくれたハーブティーのカップを握りしめながら、意を決して尋ねた。
「……私たちはこのまま王国を滅ぼすべきなのでしょうか? それとも、何か別の道というものはないのでしょうか……?」
それは『謎の軍師』ではなく、一人の少女リナとしての素朴で切実な問いだった。
グレイグは私の問いに少し驚いたような顔をしたが、やがてその視線を窓の外に向けた。
「……リナ。それは俺たち軍人が決めることじゃない」
彼は静かに言った。
「戦場でいかにして勝利を掴むか。それが俺たちの仕事だ。だがその勝利の果てに国をどうするのか……敵を許すのか、滅ぼすのか。それを決めるのは、ただお一方、玉座におわす皇帝陛下だけだ」
その言葉に私はハッとした。
そうだ。私は今まで「どうやって勝つか」ばかりを考えてきた。目の前の戦いに勝利し、帝国を守ることだけを。
でも、その先は?
この戦争をどう終わらせるのか。勝利の果てにどんな未来を築くのか。
その最も重要な羅針盤を持たないまま、私はただ闇雲に勝利という名の船を漕いでいただけだったのだ。
(陛下の、お考えを知らなければ……)
私がこれから献策すべきは、ただの勝利への道筋ではない。
皇帝陛下が望む未来へとこの国を導くための、最善の道筋でなければならない。
そのためには陛下の真意を、この耳で直接確かめる必要がある。
私は顔を上げた。その瞳にはもう迷いはなかった。
「グレイグ閣下、お願いがございます」
「……なんだ。言ってみろ」
「皇帝陛下との極秘の個人謁見を、お許しいただきたいのです」
「!?」
私の言葉に、グレイグもそばにいたセラも目を見開いた。
「リナ、お前、何を……!」
「『今後の帝国の百年を見据えた、極めて重要な献策がある』……そうお伝えください」
私はきっぱりと言い切った。
「これは一軍師としての正式な具申です」
私のあまりに真剣な様子に、グレイグはしばらく何も言えずに私を見つめていたが、やがて大きく、深いため息をついた。
「……分かった。お前のその目は、俺が何を言っても聞く耳を持たん時の目だ。……陛下に取り次いでみよう。だが、どうなるかは分からんぞ」
数日後。
宰相閣下は私の突飛な願いに、案の定ひどく訝しんだらしい。
だが最終的に、皇帝陛下は「面白い」の一言でこの異例の謁見を許可した。
場所は謁見の間ではない。王宮の奥深くにある皇帝個人の書庫。
帝国の未来を左右する一人の少女と一人の皇帝の、秘密の対話の舞台は静かに整えられようとしていた。
「私も、もう誰も失いたくありません。もしこの策で一人でも多くの仲間が生き残れるのなら……私はどんな非難も甘んじて受け入れます」
リナの言葉は、グレイグの心を大きく揺さぶったようだった。
彼は長いため息をつくと、椅子に深く身を沈めた。
「……分かった。お前のその、地獄の底まで見通すような策、気に入った」
そして彼は、覚悟を決めた顔で私を見た。
「そうだな。この策は皇帝陛下に具申するべきだ。俺や、ましてやお前のような子供が背負う類の話ではない。陛下がこの帝国を今後どのような国とするおつもりなのか、そういった次元の話だ」
「はい。その通りだと思います」
「分かればいい。お前が一人で背負う話ではないのだ。ただ、お前はそういうやり方も可能であると献策するだけでいい。決断はお前がするな」
グレイグは私の肩に、大きな手をぽんと置いた。
「……勇気をもって、よく相談してくれたな」
数日後。
リナ・フォン・ヴァール男爵の名で(ただし軍師の提案として)、帝国の行く末を左右する一通の親書が帝都へと送られた。
帝国の、そして王国の運命の歯車が今、最終局面に向けて緩やかに、そして静かに動き始めた。




