第4話:『空色のワンピースと輝かしい勘違い』-
「軍の書記官」
なんという甘美な響きだろう。帝国のエリートだけが身にまとうことを許される、輝かしい称号。
旅立ちの朝。窓から差し込む光が部屋の埃を金色の粉のようにきらきらと舞わせていた。生まれて初めて手に入れた自分だけの姿見の前で、私は優雅にくるりと回ってみせる。
鏡に映るのは、いつも薄汚れたお下がりを着ていた私じゃない。物語のお姫様のような少女が、はにかんでそこに立っていた。
「リナ。ええ、ぴったりね。とっても素敵よ」
院長先生が、私の肩を優しく撫でながら微笑む。その目元は昨夜泣き明かしたのだろう、まだ少し赤い。
このワンピースは、院長先生が私のために用意してくれた、とっておきの一着。孤児院で一番上等だった古いシーツを、シスターたちが薬草で何度も煮詰め、澄んだ秋空の色に染め上げてくれたものだ。袖口には少し不格好だが心のこもった、小さな白い花の刺繍。糊が利きすぎて少しゴワゴワするけれど、これが私の人生で初めての「自分だけの、新品の服」だった。
(すごい……。これなら帝都の司令部に行っても恥ずかしくない。軍の書記官なら、お貴族様とお話しする機会だってあるかもしれないわ)
胸の高鳴りが止まらない。勤務地はきっと、帝都の安全な司令部。毎日、温かいスープと焼きたてのパンがお腹いっぱい食べられて、夜はふかふかの羽毛ベッドで眠れるに違いない。薔薇の香りがするお風呂にだって入れる。そして、ちゃんとお給金をもらったら……まず貯金して、院長先生に新しい毛皮のストールを。トムには革のボールを、アンナには可愛いリボンを……。
「リナ、すごい!」「お洋服、フワフワ!」「お姫様みたい!」
幸せな妄想は、子供たちが部屋になだれ込んできたことで中断された。みんな、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、私の新しいワンピースの裾を羨ましそうに、そして少し寂しそうに指でなぞっている。
一番年下のアンナが、裾をくいくいと引っ張った。
「リナ、行っちゃうの……? アンナ、寂しいよぉ……」
しゃくりあげながら、アンナは私の腰にぎゅっとしがみつく。その小さな声に、他の子たちも不安そうな顔で私を見上げた。
ぽつりと、誰かが呟く。
「偉くなったら、私たちのこと、忘れちゃうんだ……」
その言葉が、私の胸にちくりと刺さった。
そうだ。この子たちは、私が遠くへ行くことをただ寂しがっているだけじゃない。私が違う世界の人間になって、みんなを忘れてしまうと怖がっているんだ。
私はその場にしゃがみこみ、震えるアンナの小さな体を強く抱きしめた。
「大丈夫よ、アンナ。寂しくなったらお空を見て。同じお月様が見えるから。それに、お休みの日には必ず会いに帰ってくる。約束するわ」
アンナの背中を優しく叩き、私は不安げなみんなの顔を見渡して、きっぱりと言い放った。
「忘れるわけないじゃない!」
自分でも驚くほど、強く、はっきりとした声が響いた。
「みんなは、私のたったひとつの、大切な家族なんだから!」
涙をぐっとこらえ、私は立ち上がる。精一杯の笑顔で、胸を張った。
「だから待ってて! 私が偉くなったら、毎週末、馬車いっぱいにプレゼントを届けるわ! 蜂蜜がたっぷりかかったバターケーキとか、キラキラ光るお砂糖の塊とか! お肉だってお腹いっぱい食べさせてあげる! だから、泣かないで!」
私の大見得に、子供たちの目にぱっと光が宿る。「わーっ!」という歓声が上がった。そうだ、もうあのカチカチの黒パンとはおさらば。甘いお菓子とジューシーな肉、輝かしい未来が待っているのだ!
やがて、石畳に硬い蹄の音が響き、迎えの馬車が到着した。帝国軍の紋章たる翼持つ獅子が描かれた、見たこともないほど立派な四頭立ての幌馬車だ。
院長先生が私の手を握りしめ、小さな布製のお守りを握らせてくれる。中には、硬い石のような感触があった。
「私が子供の頃に母から貰った、聖リリアンの涙石です。きっと、あなたを守ってくれます。……リナ、無理はしなくていいのですよ。辛くなったら、いつでもここに帰っていらっしゃい」
「大丈夫です、院長先生! 私、頑張ります!」
力強く頷き、院長先生と最後の固い抱擁を交わす。先生の背中が、小さく震えているのを感じた。
馬車に乗り込み、窓から顔を出す。
「行ってきます!」
遠ざかっていく古びた孤児院。涙ながらに、いつまでも手を振ってくれるみんな。私の目にも、熱いものがじわりとこみ上げてきた。
(待ってて、みんな。待ってて、私の輝かしい未来!)
ガタガタと揺れる馬車の中、私はこれからの栄光に満ちた生活を夢見て、胸をときめかせていた。御者台に座る護衛兵士の背中が、鋼の鎧のように強張っていることにも気づかないまま。
窓から見える景色が、城塞都市グルツの大通りを抜け、次第に寂しい通りへと変わっていく。
(司令部は少し中心から外れたあるのかしら。機密保持のためなのね。きっと静かで仕事に集中できるんだわ)
そんな呑気なことを考えているうちに、馬車は城塞都市グルツを囲む城壁の、東に位置する門へとたどり着いた。
門を守る兵士が、私たちの馬車を見て硬い敬礼をする。
「東部戦線に向かわれるとか。道中お気をつけて。ご武運を」
兵士の目に宿る憐れみの色も、その言葉の本当の意味も、浮かれた私だけが理解していなかった。
門が軋みながら開かれ、馬車が進む。門の向こう側は、空の色さえもくすんで見えた。




