第297話:『古狼たちの盟約』
夜明け前の冷たい風が焚火の最後の熾火を揺らしている。
帝国の使者たちが嵐のように去った後、『風読む民』の野営地は深い静寂に包まれていた。だがバラクのゲルの中だけは、男たちの息詰まるような緊張感で満ちていた。
三つの部族の長とその側近たち。彼らは無言のまま互いの顔色を窺っている。
沈黙を破ったのはバラクだった。彼は深く深く頭を下げた。
「……すまなかった。貴殿らを欺く形となった。だが言わせてほしい。最初から帝国の名を明かせば貴殿らは警戒し、この場に来ることすらなかっただろう。まずは『薬』と『塩』という『事実』を見せ、その上で『真実』を語るしかなかったのだ」
その率直な言葉にゴードとエルラは何も言わない。
「だが」とバラクは顔を上げた。その瞳には部族の未来を憂う指導者の、揺るぎない光が宿っている。
「我らにとって、唯一生きる道が拓けたとわしは信じている」
彼は語り始めた。
「天翼の軍師は我らを利用しようとしている。それは間違いない。だが我らにも利のある形でだ。未来永劫そうかと問われれば分からんと答えよう。だがそんなものは今気にしても意味がない。我らはまず今を生きねばならん」
彼の言葉がゲルの中の空気を震わせる。
「天翼が語る未来は明るい。クルガンの語る未来に我らの未来はない。明白であろう。私はそう見た。皆の意見を聞こう」
「意見も何も」
ゴードが苦々しく吐き捨てた。
「もはや約定したも同然。他に道などあるまい」
「それでも、だ」
バラクはきっぱりと言った。
「最後に天翼に見せつけられはしたが、あれがなくとも私は天翼と手を結ぶつもりだった。あれは駄目押しの余興よ。勝てん、あれにはな」
そこから三人の族長による本当の議論が始まった。
ゴードはクルガンへの恐怖と帝国への根深い不信を隠さない。エルラは森の民としての独立を何よりも重んじ、外部との過度な干渉を警戒した。
だがバラクは粘り強く語りかけた。病に倒れる子供たちの未来を。塩も鉄もなく、ただすり潰されていくだけの未来を。そして天翼の軍師という未知の力がもたらす、まだ見ぬ可能性を。
「……それに我らの間にはすでに『絆』がある」
バラクはゴードとエルラの顔を交互に見た。その声には確信の色が滲んでいた。
「かつて北の交易を牛耳り、我ら騎馬の民の中でも最も豊かだった『カナン』の民。彼らはクルガンに拠点を奪われ、その富と力を根こそぎにされた。だが民が滅んだわけではない」
バラクの声が熱を帯びる。
「『教育』の名目で彼らは我らの部族に散り散りにさせられている。だが水面下では彼らの情報網は今も生きている。読み書きと計算に長け、そして何よりクルガンへの復讐の炎を静かに燃やし続けている者たちがすぐ側にいるのだ」
「この者たちを交易官として取り立て部族間の連絡役とすれば、我らは一つの頭脳と神経を持つことができる。これもあの軍師殿が示してくださった知恵よ」
その具体的な提案が二人の族長の心を現実に引き戻した。それは絵空事ではない、実行可能な未来図だった。
夜が明け、東の空が白み始める頃。三人の間には確かな結束が生まれていた。
クルガンに対しては共同で遅延工作を行い、時間を稼ぐ。
帝国との交渉は三部族が一致団結し、決して侮られることのない対等な立場で行う。
三人はそれぞれの短剣を抜き自らの掌をわずかに傷つける。流れ落ちる血をゲルの中央にあった焚火の灰に混ぜ、その灰を互いの額に塗りつけた。
「血は大地に、誓いは魂に」
血と灰の盟約。それは裏切りは死を意味する、北方諸族における最高の誓いの儀式だった。
◇◆◇
朝日が荒野を黄金色に染める頃、ゴードとエルラはそれぞれの側近たちと共に帰路についた。
彼らの馬の鞍には、バラクから分け与えられた『星影草』と塩の袋がくくりつけられ、ずしりと重い音を立てている。それはただの物資ではなく、部族の命運そのものの重さだった。
ゴードは馬上で何度も振り返り小さくなっていくバラクの野営地を見つめた。
「……さて。どうやって部族の者たちを説得したものか」
彼は天を仰いで呟いた。帝国を憎む戦士たちに、どう説明すればよいのか。その悩みは深い。
隣を並走するエルラが、静かに口を開いた。
「言葉はいらぬ。……ただあの薬で民を救い、塩で飯を食わせる。それだけでいい」
彼女の細い目はバラクの野営地で見かけた子供たちの笑顔を思い出していた。
「バラクのところの民の顔を見たか? ……あれが答えだ。理屈ではなく結果で黙らせるしかない」
「……違いない」
ゴードは自嘲気味に笑い手綱を握り直した。
「行くぞ。……我らも、もう後戻りはできん」
二つの隊列は分岐点で分かれ、それぞれの領地へと駆けていく。彼らの前には、険しくしかし確かな希望へと続く道が、朝陽の中に長く長く伸びていた。
◇◆◇
彼らが去った後、バラクは一人、ゲルの中に残っていた。
夜明けの淡い光が差し込む中、入り口の幕が揺れアランが姿を現した。その背後には、骨の杖をついたシャーマンの姿がある。
老人はバラクと目を合わせようともせず、強張った表情で入り口に立ち尽くしていた。あの一件以来、彼の心には族長への不信と自らの信仰が否定された屈辱が燻り続けている。
「……ご苦労だったアラン」
バラクは息子を下がらせるとシャーマンに近づき、その前に膝をついて同じ目線の高さになった。族長としてではなく、一人の部族民として。
「長老。……気分を害したこと、詫びよう」
バラクの静かな言葉にシャーマンは鼻を鳴らした。
「詫びなど無用。族長は帝国の魔女を選び、大地の教えを捨てた。それだけのことであろう」
「違う」
バラクは静かに、しかし力強く否定した。
「私は部族の存続と繁栄を最優先に考えたのだ。帝国を敵とせずとも成り立つ道があるならば、私は泥をすすってでもその道を行く。……それが族長たる私の務めだ」
彼はシャーマンの乾いた手を取り両手で包み込んだ。
「だが、それは我らの誇りや伝統を軽んじることではない。体を生かすのはパンと薬だが、心を支えるのはいつだって大地の祈りだ。……長老、あんたの祈りが必要なんだ」
シャーマンの強張っていた肩がわずかに揺れた。
「……新しい風が吹き込めば、古き良きものは失われる。わしはそれが怖いのだ、バラクよ」
老人の声から棘が消え、ただの恐れと寂しさが滲み出ていた。
「変わらぬものなどない。だが根さえしっかりしていれば、木は何度でも新しい枝を伸ばせる」
バラクは真摯な瞳で老人を見つめた。
「これからもその目で判断し、私が道を誤りそうになった時はその杖で遠慮なく私を叩いてくれ。……問題があると思えば何度でもわしに逆らってほしい。あんたは我らの良心なのだから」
長い沈黙の後、シャーマンは深くため息をついた。
「……口が上手くなったものだ。……よかろう。だが、わしの目は誤魔化せぬぞ。帝国の毒が回りすぎぬよう、しっかり見張らせてもらう」
憎まれ口を叩きながらも、その瞳には以前のような険しい敵意は消え、代わりに厳しくも温かい保護者の色が戻っていた。
バラクは安堵の息をつき、深く頭を下げた。
体と心の両輪が揃った。これでようやく、前へ進める。
彼はゲルの外へ出るとどこまでも広がる朝焼けの空を見上げた。その光の先に、まだ見ぬ激動の未来が待っていることを予感しながら。
閑話よりこちらが先の話でした…。追々、入れ替えさせて頂きます。
よろしくお願いします。
かぐや
そして困った。クルガン陣営、まとまりつつある国特有の混沌とした熱気、そして殺伐とした空気がすごいです。
何が困った?そりゃ彼らの歴史的背景とか、複雑に絡み合った部族間のパワーバランスとか……うわぁ…頑張って描ききるぞ~…腕が鳴りますね(冷汗)
…クルガン様、その参謀(近々登場)様。やんちゃがすぎます。うん、リナちゃん頑張れ。君ならいける(丸投げ)。




