第293話:『荒野の茶会、狼たちの選択』
太陽が西の地平線に触れ、荒野のすべてを燃えるような深紅から、夜の予感を含んだ群青色へと染め上げていく。
風が吹き抜けるだけの静寂の中、篝火に照らされた白いテーブルが、そこだけ世界から切り離されたかのように浮かび上がっていた。
その異様な光景の中心で、ゴードとエルラは覚悟を決めたように腰の剣を解き、傍らのヴォルフラムに預けた。丸腰になることへの恐怖を、プライドという鎧で必死に覆い隠し、彼らは席に着いた。
彼らの険しい横顔に、揺らめく炎が深い影を落とす。
「テーブルについていただけたこと、感謝いたします」
銀の仮面の下から響く声は、凪いだ湖面のように静かだった。
私は、クララが淹れた香り高い紅茶を彼らに勧めながら、静かに切り出した。
「……では、単刀直入に申し上げましょう。帝国は、あなた方北方諸族と戦うことを望みません」
「ふん」
ゴードが、獣のように低く鼻を鳴らした。手つかずのティーカップを睨みつけ、吐き捨てるように言う。
「散々我らの同胞を殺しておいて、今さら何を。……その紅茶のように甘い言葉で、我らを油断させる気か」
剥き出しの敵意が、張り詰めた空気をさらに冷たくする。隣でエルラは動じない。能面のような貌の奥で、その黒曜石の瞳だけが、仮面の少女の真意を探るように昏く光っていた。
「帝国が望むのは、ただ二つ」
私は、その敵意を柳に風と受け流す。
「一つは、帝王クルガンという共通の脅威に対し、あなた方がバラク殿と共に『壁』となること。そしてもう一つは……」
私はそこで一度言葉を切り、野営地の方角へと視線を移した。風に乗って、かすかに子供たちの笑い声が届く。
「……子供たちに、戦いのない未来を約束すること。ただ、それだけです」
「はっ! 馬鹿を言うな!」
ゴードがテーブルを叩いて立ち上がった。椅子がガタりと音を立てて倒れる。
「綺麗事を並べるな! 要するに、我らをクルガンと戦わせ、共倒れを狙う気であろうが! 帝国の盾になれだと!? お断りだ!」
その激情を、バラクの豪快な笑い声が吹き飛ばした。
「がっはっは! ゴードよ、座れ。お前の気持ちも痛いほど分かる。わしも最初はそう思うたわ」
彼はゆっくりと立ち上がると、自らの屈強な腕を広げてみせた。
「だがな、冷静に考えてみろ。この軍師殿が本気で我らを潰す気なら、もっと別のやり方があったはずだ。……例えば、我らをあの『呪い』で全滅させることも、な」
その言葉が、二人の族長の心に重く響いた。
バラクは続ける。
「軍師殿は、病の原因を突き止め、薬を与えてくださった。呪いは解かれ、子供らは笑っておる。……これが、口先だけではない、この軍師殿がもたらした『答え』よ」
ゴードは歯噛みし、渋々といった様子で椅子を起こし、再び腰を下ろした。
私は、彼らの動揺が落ち着くのを待って、静かに続けた。
「クルガンと直接戦う必要はありません。むしろ、戦ってはなりません」
私は、「偽りの敗走」作戦を語り始めた。
表向きはクルガンの命に従い帝国に侵攻するふりをする。だが、帝国軍と接触した瞬間に「激戦の末の撤退」を演じ、双方痛み分けの形で兵を引く。それを繰り返すのだ、と。
その奇策の意図を、最初に読み解いたのはエルラだった。
「……なるほど。戦ったという事実は残しつつ、戦力を温存する。……我らを無能と断じクルガンが見限るか、あるいは帝国の消耗を喜び自ら動くか……いずれにせよ、我らに『時』を与える、と?」
「ご明察です」
私は頷いた。
「彼が痺れを切らして動き出すまで、あなた方は力を蓄えるのです。来るべき時に、背後からその牙を突き立てるために」
「ですが、あなた方は隣人とはいえ、これまで深く干渉し合うことなく過ごしてこられた。いきなり密接に連携しろと言われても、疑心暗鬼になるのは当然でしょう」
私は、最後の楔を打ち込む。
「ですから、三部族で『交易官』という名の監視役を互いに置き、常に情報を共有していただきたい。疑心が、ありもしない敵を生みますから」
「……ふん」
エルラが、冷ややかな視線を私に向けた。
「交易官、か。聞こえはいいが、要は人質と監視だろう。……そう言いながら、天翼殿の手の者も、我らの中に潜り込ませるつもりではないのか?」
その鋭い指摘に、私は仮面の下で静かに微笑んだ。
「……否定はしません。ですがそれは、あなた方を害するためではなく、守るためです。クルガン側の密偵が入り込まぬよう、私の『目』も置かせていただきます」
それは、脅しであり、同時に最強の護衛をつけるという提案でもあった。
そして、私は彼らの喉元にもう一つの刃を突きつけるように、穏やかに付け加えた。
「それに加えて、その『交易官』の人選についてですが……」
「……何だ?」
「既に、最適な者たちがあなた方の元に居られるはずです。彼らに任せてはいかがでしょうか?」
ゴードとエルラが訝しげに眉を寄せる。私は、彼らの部族の内情深くにある「しこり」を、正確に言い当てた。
「かつて北の商業を牛耳っていた豊かな都市、『カナン』の民のことです」
その名が出た瞬間、二人の族長の顔色が変わった。
「クルガンの策略によって都市を乗っ取られ、その民は部族内に平等な知識をもたらす、という名目で、あなた方の部族にバラバラに配属させられている……違いますか?」
「……なぜ、そのようなことまで……」
ゴードが呻くように言った。それは彼らの部族内でも、よそ者として扱いに困っていた者たちのことだった。
「彼らは元々商人であり、読み書きと計算に長けています。そして何より、故郷と誇りを奪ったクルガンを、心の底で憎んでいる。……彼らを取り立て、役割を与えれば、必ずやあなた方の力になるでしょう。クルガンへの復讐という利害で、我々は結ばれるのです」
ゴードとエルラは、顔を見合わせた。
周囲には、闇に溶け込んだ帝国軍の気配。目の前には、自分たちの内情すら透かして見る底知れぬ智謀を持つ軍師。
もはや退路はない。だが、それは絶望的な選択ではない。バラクという生きた証拠と、目の前の少女が示す未来への、一縷の望みを賭けた選択だった。
長い沈黙の後、ゴードが深いため息と共に、目の前の冷めた紅茶を一気に煽った。
「……よかろう。乗ってやる」
エルラもまた、静かに頷いた。
三つの部族が、帝国の掌の上で踊ることを選んだ瞬間だった。
彼らが重い沈黙に沈む中、私はふと何かを思い出したように、ぽつりと呟いた。
「――ああ、そうだ」
その一言が、夕暮れの静寂に、新たな波紋を広げた。




